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【歴史の交差点】フジテレビ特任顧問・山内昌之 関ケ原敗者の戦後

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 歴史を露骨に改竄(かいざん)せずとも、解釈に潤色を加えるのは、勝者だけではない。時には敗者も自らの政治選択や軍事敗北を弁解するために歴史を修正することがある。関ケ原戦後の吉川(きっかわ)広家が恩賞として徳川家康から授与された長門と周防を辞退し、改易寸前の毛利本家に譲ったという美談もその例かもしれない。

 『寛政重修諸家譜(ちょうしゅうしょかふ)』によれば、慶長5年10月3日に家康は毛利輝元の所領をすべて召し上げ、広家に防長2州を与えると伝えた。すると、広家は「広家ひとり上賞をかうぶらんは、宗家を捨て一身の栄をむさぼるに似たり。義にをいて安んじがたし」と述べ、2州を輝元父子に賜(たま)うよう懇願したというのだ。「十日ふたゝび広家をめされ、広家一己の栄をむさぼらず、ひとへに宗家をたてんことを願ふ、貞信の志深く感じおぼしめすところなり」。家康は広家に周防の上方口(岩国)に住し、安芸(広島)の福島正則と力を合わせて中国の鎮護たるべし、と命じたともいう(『寛政重修諸家譜』巻六百十八)。

 出来過ぎた話であるが、『吉川家文書』『毛利家文書』のどの史料にも出てこない。よく似た内容は、広家が黒田長政と正則に宛てた手紙(10月3日)や長政から広家に送られた2通の手紙(2日と3日)にある。しかし、これらは手紙を送った側や受けた側にはなく、吉川家側にしか保存されていない。

 そこで、日本史学者の光成準治氏はこれらの手紙が偽作であるとし、広家が毛利を救ったという通説に疑義を呈した。関ケ原後、十数年たった慶長年間末になっても、広家は南宮山の毛利秀元の作戦を邪魔したと悪口を言われ、毛利家中で白眼視されていた。精神的苦痛を感じた広家は家康への内通を正当化する物語を作り上げたというのだ(『吉川広家』)。歴史の修正は、むしろ吉川家にとり敗者の戦後として芳しくない結果をもたらした。

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