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【お城探偵】キリシタン時代の終焉と原城 籠城選んだ戦略の理由

原城に残る石垣。城内の発掘調査では、一揆軍の戦死者とみられるおびただしい数の人骨が見つかった
原城に残る石垣。城内の発掘調査では、一揆軍の戦死者とみられるおびただしい数の人骨が見つかった
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 16世紀後半はキリシタン大名の城下町が海外交易で輝いた時代だった。大友宗麟(そうりん)の府内と臼杵(うすき)(大分県大分市・臼杵市)、松浦隆信の平戸(長崎県平戸市)、大村純忠の大村(長崎県大村市)、そして有馬晴信の日野江・原(長崎県南島原市)など、魅力的な城下都市が九州に華開いた。今回は原城を訪ねてキリシタン時代の終焉(しゅうえん)を考える。

 有馬晴信は1599(慶長4)年から原城を築きはじめた。本丸には天守に相当した三階櫓(やぐら)もあった。1604(同9)年に工事はほぼ完成し、司祭が盛大なミサを行って原城を祝別した。1637~38(寛永14~15)年に天草四郎をはじめとした「天草・島原の乱」の一揆軍が籠城の場所として原城を選んだのは、この城が強固な軍事機能を備えただけでなく、神の加護を約束された特別な城だったからに違いない。

 原城を訪ねると、有明海に面した断崖の上に本丸があり、要害の堅牢(けんろう)さを実感する。一方、海に面した原城は、天草・島原の乱のときのように陸地側を囲めば、“袋のネズミ”になる弱点があった。だから一揆軍の原城籠城の判断は誤った選択のようにも思える。

 ところが、原城の絵図を調べると意外なことが判明した。原城はいくつもの門を海に向けて設けていて、有明海に開いた「海の城」だったのだ。原城の周辺海域は潮流が複雑で、天草・島原の乱のとき、幕府軍は船を留めるのに難渋した。それに対し一揆軍は有明海を熟知していたので、幕府軍の封鎖網を突破して船を出せた。原城は決して袋のネズミではなかったのである。

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