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【話の肖像画】漫画家・水野英子(79)(2)短編デビューは西部劇

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 〈中学時代の投稿は佳作止まりで、雑誌には掲載されなかった。就職も決まった昭和30(1955)年3月、一通の手紙が家に届く〉

 茶封筒に「大日本雄弁会講談社」とあり、知りもしない人の名前で、いったい何だろうと開けてみたら「手塚治虫(おさむ)先生のところで原稿を拝見したが、大変かわいい絵なので、カットや小さい漫画をいくつか描いてみせてくれないか」「手塚先生もそちらへお便りする心算のご様子です」とあって。こんなことが世の中にあるのだろうかと驚き、手紙を神棚にお供えしました。ふだんは神様など気にもかけなかったのに、大変虫のいい話で(笑)。

 〈手紙の主は「少女クラブ」編集者の丸山昭。「漫画少年」(学童社)の投稿の審査をしていた手塚から、「育ててみたら」と推されたのが理由だった〉

 丸山さんによると、手塚先生のアパートの押し入れの天袋に、私が14歳で投稿した「赤毛の小馬」という作品があったそうです。なぜ持ってらしたのか。お気に召してくださったのかと、うぬぼれていますけれども。すぐにカットを描いてお送りし、少女クラブ8月号に初めて載りました。翌年に書き下ろし16ページの「赤っ毛小馬(ポニー)」が掲載され、これが西部劇でした。

 〈なぜ、西部劇だったのか〉

 私は男の子みたいな子で、とにかくメロメロ(メロドラマ)が大嫌い。兄と映画で見た西部劇の大ファンだったんです。拾われたのが少女雑誌だったので、女の子を主人公にするしかなく、荒馬ならしのロデオ少女を描きました。当時は編集者にプロット(あらすじ)を話すだけで本番に取りかかっていたので、丸山さんはフランスの田園を舞台にした話だと思っていたらしいのですが…。

 〈32年11月、丸山は石森(後に石ノ森に改名)章太郎、赤塚不二夫と3人の合作を提案する〉

 少女漫画を描ける人が少なかったので、作家の人数を増やすために当時、合作をやったんです。3人のペンネームは「U・マイア」で、水野のM、石森のI、赤塚のAでマイア。石森さんと赤塚さんも「いずみ・あすか」名で合作をやっていました。漫画は「悪書」とされていたので、描き手が今のようにたくさんいる時代ではなかった。今みたいに漫画が世の中に認められるなんて、想像もできなかったですね。

 〈合作のために33年3月、東京都豊島区のアパート「トキワ荘」に入居した〉

 初めてトキワ荘に行ったときに、西部劇であこがれていたジーパンに着替えて部屋に入ったら、そこにいた石森さん、赤塚さん、赤塚さんのお母さんたちの動きが止まって…(笑)。皆さん、私じゃなくてジーパンを見てるんです。それっきり、女の子扱いしてもらえなくなりました。トキワ荘の映画やテレビドラマでは、私はぶっきらぼうや生意気に描かれていることが多いんです。自分では普通の女の子だったと思っていますが(笑)。(聞き手 鵜野光博)

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