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【昭和天皇の87年】東京駅の惨劇 暗殺された首相は、盤石のレールを敷いていた

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 裕仁皇太子の摂政就任を主導した原だが、大正天皇への敬慕の念も厚く、日記の節々に尊皇の誠をつづっている。暗殺されなければ、いずれ内大臣などとなり、裕仁皇太子を支えたことだろう。

 ともあれ、原が用意周到に敷いたレールは、死後も盤石だった。

 10年11月25日、皇族会議と枢密院会議が開かれ、裕仁皇太子の摂政就任が全員一致で議決された。

 裕仁皇太子、20歳の秋である。

× × ×

 外遊で見聞を広め、摂政となった裕仁皇太子が最初に取り組もうとしたのは、女官制度の改革だ。

 天皇や皇后の身の回りの世話をする女官は主に華族出身の未婚女性が務め、生涯を御所の中で過ごす一生奉公だった。伝統と格式のある世界だが、現代的視点からみれば非人間的といえなくもない。

 摂政就任から間もない11年1月28日、裕仁皇太子は宮相の牧野を呼んで言った。

 「自分の結婚も其内行ふ事とならんが、それに付特に話して置き度く考ふるは女官の問題なり、現在の通り、勤務者が奥に住込む事は全部之を廃止し日勤する事に改めたし」(※3)

 新しい時代にふさわしい宮中制度の改革は、かねて牧野も考えていたところである。ただ、万事に慎重な牧野は、裕仁皇太子の提案を頼もしく思いながら、軽々しく賛同することはしなかった。

 宮中の伝統と慣習を重んじる貞明皇后が反対することが、目に見えていたからだ。女官制度の改革は、裕仁皇太子の結婚を待たねばならない。

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