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忽然と消えた「大和の日光」 奈良・内山永久寺廃寺の背景とは

内山永久寺があった場所にある宗房(松尾芭蕉)の句碑(渡部圭介撮影)
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 明治初期、現在の奈良県天理市で、ひとつの寺院が姿を消した。内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)-平安時代創建の古刹(こさつ)は、仏教界を襲った廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)という荒波にのまれたといわれるが、実際は寺運営の中心にいた僧侶が勤王思想の影響で廃寺を粛々と進めた結果だと指摘されている。世界文化遺産の日光東照宮などの社寺がある栃木県日光市と並び、「大和の日光」と称された荘厳な寺院が、消えた背景に迫った。(渡部圭介)

 永久寺の境内の様子は、江戸時代に描かれた「大和名所図会(ずえ)」をはじめ、数々の絵図から分かる。寺跡にある案内板に記された絵図には、塔頭(たっちゅう、子院)や鎮守社を含め、70以上の建物が確認できる。

 別の案内板では、永久寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になったとあった。廃仏毀釈は、神道の国教化を目指す明治新政府の神仏分離令に端を発し、先鋭化した廃仏運動。各地の寺院が窮地に陥っている。

 ただ、永久寺ほどの大寺院が跡形もなく消えたケースはあまり耳にしない。元天理大教授、吉井敏幸さんは「廃仏毀釈で消えたというより、内部から崩壊していったのではないか」と話す。

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 神仏分離令が具現化するのは慶応4(1868)年3月。早々に廃寺が決まったという永久寺について、吉井さんは「寺の運営の中心にいた僧侶が、(天皇に忠義を尽くす)勤王派だったのではないか」とみる。

 永久寺を仕切ったのは亮珍(りょうちん)という僧侶。公家の中でも格式の高い藤原氏の流れをくんだ人物だ。公家たちの間に、倒幕、そして勤王思想が広がる時代の中、亮珍もその影響を受けていたとみておかしくはない。

 永久寺には江戸時代、50~60の塔頭があり、亮珍はそのひとつ「上乗院(じょうじょういん)」のトップだった。廃寺がすんなり決まった背景には、経済的にも豊かな上乗院が、永久寺の運営権を掌握していたこともあるという。

 吉井さんは「上乗院の力は極端なほど大きく、何でも決めることができた。周囲も決定に抵抗できない、ヒエラルキー(階層)があったのだろう」と語る。

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