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【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(40)引き金となった「決起未遂」 黄長●亡命事件の真相

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 ◆神格化は認めがたい

 だが、主体思想を学問として究めようとする黄や朴と、それを、政治的に利用したい金正日らとは、いずれ衝突せざるを得ない「運命」にあった。

 朴が平壌に滞在していた1995年10月、黄から衝撃的な話を打ち明けられる。再び、朴書に拠(よ)る。《主体思想がマルクス・レーニン主義者に受け入れられないのは、マルクス主義思想を標榜(ひょうぼう)しながら唯物的弁証法とは縁もゆかりもない首領(金日成)の神格化、絶対化を唱え、現在の独裁体制を思想理論で支えているからだ、と黄長●は自らの考えを述べた…》

 その上で黄は、翌96年2月にモスクワで開催される主体思想の国際セミナーの場で、その考えを世界の研究者の前で披露する、ついては、メインスピーチを朴にやってほしいという話であった。「私たちは、これほど深く、新しい真理を追究しているのに、広く受け入れられないのは『10大原則』が妨害しているからだ。『それと主体思想は全く違うんだ』と世界に広言すべきだと思いました。国(北朝鮮)に背くことになるが、学者としての良心の方が大事だった」

 黄の計画は、それだけではなかった。モスクワでの意見表明と呼応して平壌では金正日の義弟である張成沢(チャン・ソンテク)(2013年処刑)や軍幹部が決起し、独裁体制を終わらせようというのである。「勝つか、負けるか…命がけの計画でした。(黄は)党と軍の幹部、思想学者が立ち上がれば、大衆の支持を必ず得られると信じていたのだと思います」

 ところが、病気に倒れた朴がモスクワのセミナーに参加できなくなり、黄はひとり小さな集会の場で思いのたけを語った。そのスピーチが録音されて金正日に報告され、黄の立場は一気に悪化する。「決起」は行われなかった。

 ◆青酸カリを懐に忍ばせ

 1997年2月、すでに“イエローカード”を突きつけられていた黄が国際セミナーの団長として来日、東京・新宿のホテルで夜半、ひそかに朴と再会する。翌朝早く、人けのない公園で2人は語り合った。《(黄は)ポケットから小さな袋を取り出し…「金正日が私をこのまま放っておくはずがない。これ以上生きるのが苦しくなってきた。青酸カリがある。これを飲めば苦しまずに死ねるだろう…」。私たちは、かたく抱擁しあった。私の両頬は涙にぬれた》(「同書」から)

 黄は、日本から帰国の途に立ち寄った中国・北京で韓国大使館に駆け込み、政治亡命する。北朝鮮側は、悪罵(あくば)の限りをつくして黄を非難、家族ら係累は、政治犯収容所へ収監されたり、自ら命を絶ったりした。もしもモスクワのセミナーで、朴が多くの聴衆の前でスピーチできていたら、「決起」が行われていたら事態は違っていただろうか?

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