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【話の肖像画】農業者・涌井徹(70)(3)「ヤミ米」批判に負けず開拓

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 〈昭和58年、減反政策をめぐる農事調停を秋田地方裁判所に起こす〉

 「コメを作れないのはなぜか」という素朴な疑問からです。2回目の調停で「農家が自分の田んぼでコメを作ってはいけない」という法律は存在しないと判明しました。自分たちの取り組みが法的に正しいと確認できたことは、大きな励みとなり、コメ作りに邁進(まいしん)することになりました。

 減反に従わない農家のコメは買い取りが拒否されたので、電話帳で調べて全国の米穀店に連絡し、独自ルートで販売先を開拓しました。大潟村で10グループほどあったでしょうか。それが自由米、いわゆる「ヤミ米」で犯罪者扱いです。行政はヤミ米の出荷を阻止しようと60年10月、11月の2カ月間、村の出入り口7カ所に検問所を設けました。県警が24時間体制で監視し、私も警察や検察庁に調べられました。全国の農業関係者からも非難されました。

 〈検問を通って学校に行き来した子供たちは「ヤミ米の子供」と悪口を言われる〉

 見せしめのような嫌がらせですね。でも苦しくても私には帰る場所がない。大潟村でコメを作り、生活していかなければならない。ヤミ米を作ったとして農家が告発されましたが、63年1月に秋田地方検察庁は不起訴処分としました。農事調停の判断が法的な根拠になったのだと思います。

 一連の経験から、消費者に白米を直接売ることが農家の自主自立の道を作ると考え、仲間たちと62年に株式会社の大潟村あきたこまち生産者協会を創業しました。契約農家から農協よりも高くコメを買い、自社工場で精米して直販するのです。幕末の志士、坂本龍馬が興した商社「亀山社中」をイメージしました。船を使った貿易で外部との提携を深めて力をつけていく経緯は、協会が目指す方向と同じです。

 それまで収穫したコメは玄米で米穀店に卸していました。まずは白米で売れるよう精米機と包装機を購入しました。そして産地直送のコメを買ってもらえるお客さまを全国で開拓する。インターネットが普及していない時代ですから手探りです。タウン誌や業界紙を調べたり、勉強会に参加して関係者と名刺を交換したり。都市部の米穀店のお客さまを奪った例もありました。おいしいコメを届けたい一心でした。

 理解が得られてきたと思った直後の平成元年秋、ある地方の農協が大手運送会社に「協会のコメを運ぶなら農協として取引しない」と圧力をかけてきました。私たちの自由米に引っかかる思いがあったのでしょう。仲間からは「ほかの運送会社を使えばいい」という声もありましたが、本質的な解決にはならない。大手運送会社への説得を続ける一方で、協会の倉庫には大量のコメが積み上がっていきます。苦肉の策としてトラックをチャーターし、全国の注文先に配送しました。

 この運送会社の会長は規制緩和に理解のある方で、最終的には運送を再開していただけました。(聞き手 藤沢志穂子)

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