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【本郷和人の日本史ナナメ読み】水戸学と「尊皇」(下)維新を先導して人材が絶えた藩

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 言うまでもなく、「尊皇」と「攘夷」は元来は別の概念です。どちらも水戸学から生まれ、「日本の国を愛し、日本の国の中心にある皇室を敬愛し、日本に仇(あだ)なす外国を打ち払う」というかたちでまとめられました。そのことも水戸学によってなされたので、当時の人々が水戸学を重んじることはたいへんなものだったのです。

 このことを確認しておかないと、明治政府が「南朝が正統である」と定めたことが分からなくなる。どう見ても、明治天皇は北朝の子孫です。それに朝廷においては、北朝が正統であることはいちいち断る必要もないくらい、「あたりまえ」のことだった。朝廷で作られたさまざまな歴史の書物や、上級貴族の職員録である『公卿補任(くぎょうぶにん)』などは、すべて北朝を基準に記されています。南朝のことは、併記されないどころか、参考としても触れられない。それでも明治政府は、「南朝=正統」説を採った。まさに「歴史は人がつくるもの」だったのですね。

 疑問があります。このように幕末維新期の世論をリードしていた水戸藩が、なぜ明治新政府に人材を送り込んでいないのでしょうか。その答えはたとえば吉村昭さんの名作『天狗(てんぐ)争乱』(新潮文庫、大佛(おさらぎ)次郎賞受賞)などに描かれた、天狗党と諸生党の戦いによって、有為な人物がみな死んでしまったからだと思います。

 天狗党は武田耕雲斎(こううんさい)を首領とする過激な尊皇攘夷派。一方の諸生党は水戸藩の門閥派を中心とするグループ。両者の戦いは熾烈(しれつ)をきわめ、水戸周辺で敗れた天狗党は西上するものの加賀藩に投降。敦賀の鰊(にしん)蔵に糞(ふん)尿垂れ流しのまま監禁されるなど酸鼻を極める扱いを受けた後に、350人以上が処刑されました。この事件と関係の深いあの「安政の大獄」ですら、処刑されたのは20人に満たないのですから、その苛烈さがうかがえます。一方、明治新政府軍が優勢になると今度は諸生党が追い詰められていき、戊辰戦争のさまざまな戦場で主だったメンバーが死んでいきました。

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