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【話の肖像画】農業者・涌井徹(70)(2)「減反」が憧れ砕いた

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 〈新潟県十日町市のコメ作り農家の長男に生まれ、農作業を手伝う中学時代に、秋田県の八郎潟の干拓事業を教科書で知る。大規模農業への憧れが芽生えた〉

 後ろに山がある1・8ヘクタールほどの信濃川河川敷の田んぼで、父がコシヒカリを作っていました。野菜も作り、ほぼ自給自足の生活。戦後の食糧難で全国でコメの増産が叫ばれていたこともあり、農業を継ぐのは自然の成り行きでした。でも、それ以上に田んぼを広げられる状況ではなかった。

 雪国の厳しい環境でおいしいコメを作るにはどうするか。秋田県大潟(おおがた)村では10ヘクタールの耕作地を配分すると聞き、大規模農業に憧れ、昭和45年に第4次入植として家族とともに21歳で大潟村へ移住しました。思う存分、コメ作りができると期待しました。

 〈湖底を干拓して生まれた大潟村には、ブルドーザーも沈むようなヘドロがあった。十分に乾燥しない田んぼで苦労しながらコメを作ったが、入植とほぼ同時期に大潟村でも減反が始まる。戦前に定められた食糧管理制度に基づき、政府がコメの需給・価格調整、流通の規制に乗り出した〉

 一時的な政策と聞いていたのに欧米化が進んで消費者のコメ離れが加速し、大潟村への新規入植は中止されました。農地を荒れ地のままにするわけにはいかなかったので、第5次入植者に15ヘクタール、余った農地は第1~4次入植者にそれぞれ配分され、私は計15ヘクタールを持つことになりました。ただし畑作と米作が7・5ヘクタールずつという条件です。

 当初はもち米を畑作扱いとし、2・5ヘクタールは栽培可能との指示でしたが、途中から認められなくなる。泣く泣く、まだ実っていない穂を刈り取る「青刈り」をしました。

 「畑を作れ」と言われても米作用に整備された干拓地です。コメは水田で育ちますが、畑作では土の中に深く根が張らないと良い作物は育ちません。麦、かぼちゃ、メロン、ニンニクなど、いろいろなものを作ってみましたが、全くうまくいきませんでした。残ったのは土地改良や畑作用の農機具を買うために重ねた借金だけです。

 もともと入植者はパイオニア精神が旺盛です。このままでは生活できないと53年、大潟村議会の提案で村の農家が決起し、全農家によるコメ作りが始まりました。

 行政の担当者が連日、入植者一人一人に植えた稲を青刈りするよう説得に来ました。そうしなければ土地を全て買い戻すというのです。秋の収穫期に向けて圧力は強まり、コメ作りから抜ける人が増えていきました。入植者たちで議論し、個人の判断に委ねられたものの、結果として全員が青刈りせざるを得ない状況になりました。

 収穫を1週間後に控えた田んぼ6・4ヘクタールを私は3日間かけて青刈りしました。見ていた母と妻の顔は涙。でも、一番悔しかったのは黙って見ていた父だったでしょう。手塩にかけて育てた稲を青刈りされるほどつらいことはない。入植者の全面敗北で、村には深い挫折感が漂うようになりました。(聞き手 藤沢志穂子)

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