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【本郷和人の日本史ナナメ読み】大逆事件をめぐって(下)裁判が史学に与えた思わぬ影響

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 幸徳の発言は、当時の大ボスである山県有朋を激怒させ、「天皇の正統性の問題を何とかせよ!」という山県の叱咤(しった)が飛んだといわれます。原敬の日記を見ると、原も山県の子分であった桂太郎も、「学者が学問として天皇の研究を行うことは、一向に苦しからず」と語り合っています。明治時代はそうだった。ところが大逆事件を分水嶺(ぶんすいれい)として、天皇の崇敬を強要する学問、皇国史観が次第に醸成されていく。ふつう世では「大正デモクラシー」といって、大正は自由の気風があふれていた時代とされますが、歴史学に関して言うと、大正に入ると、急に息苦しさが増していくような感じです。

 天皇は神聖にして侵すベからざる存在だから、この世に2人いることはあり得ない。南朝と北朝のどちらかが正しければ、もう一方は、どぎつい言葉を用いるならば「にせもの」である。この「にせもの」を漢字で表記すると「閏」となります。いま(明治)私たちを導く聖なる天皇家は当然、正統的な存在でいらっしゃる。けれども「にせもの」の子孫でもある。栄光ある「万世一系の天皇」を標榜(ひょうぼう)する上で、これは甚だよろしくない。この矛盾を何とかせよ。これが歴史学者に与えられた国家的な課題でした。

 いま日本史というと冴(さ)えない学問に成り下がりましたが、戦前の国史学は国の成り立ちを解き明かす学問として、文系の花形の一つでした。だから優秀な人が歴史学者を目指した。今のぼくの立場(史料編纂(へんさん)所教授)は明治末年だと「一等史料編纂官」で、お給料はなんと3倍です。まあそれはそれとして、当時の歴史学者たちが『神皇正統記』などを援用して持ち出した論理が「正しい三種の神器を持つ天皇こそが、本当の天皇である」というものでした。

 後醍醐天皇は常に正しい三種の神器に守られていた。後村上、長慶、後亀山の南朝の歴代も同様であるから、南朝の天皇が正統である。だが、1392年に後亀山天皇は京都に居を移し、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡された。この時をもって後小松天皇は「正しい天皇」となった。また後小松天皇の子孫である明治・大正・昭和天皇は、当然ながら「正しい天皇」なのだ、という理屈です。

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