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【緯度経度】東京裁判、オランダのレーリンク判事の思い 三井美奈

東京裁判のレーリンク判事(後列左から2人目)=ヒューゴ・レーリンクさん提供
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 今年は東京裁判(極東国際軍事裁判)の判決から70年になる。戦犯法廷はその後、旧ユーゴスラビア国際法廷、常設の国際刑事裁判所に受け継がれた。「勝者の裁き」の側面はいまも残る。

 今夏、東京裁判の当事者2人の書簡を見る機会があった。判事団の一人だったオランダのベルト・レーリンク判事、そして禁錮7年判決を受けた重光葵(まもる)・元外相だ。ハーグの国立公文書館に保管されている。

 レーリンクの書簡は1950年11月、重光が服役2年で仮釈放される際に書かれた。知人にあて、「大変嬉しい。彼には将来、日本外交で役割を担って欲しい」とあった。

 レーリンクは裁判で米英主導の「全員有罪」判決に反対意見を表明し、文官の無罪を主張した。判決が下された後、「誤りだ」とマッカーサー元帥に請願し、重光の赦免に尽力した。

 重光の書簡は、そんなレーリンクにあてた礼状だった。「あなたの深い理解に感謝する。裁判を通じて私は、自分のやってきた仕事を公にすることができた」。釈放された重光は、再び外相となった。56年、日本の国連加盟の受諾演説で、日本は「東西のかけ橋」になると誓った。

 レーリンクが判決に反対したのは、「平和に対する罪」(侵略罪)を事後法だと考えたからだ。インドのパール判事と同じ立場をとった。

 アジアの植民地解放論者だったパールは「全員無罪」を主張した。レーリンクは国際政治の現実を踏まえ、法の限界の中で裁く道を考えた。侵略罪での死刑は不当としながら、戦勝国が敵を拘禁し、無力化することは認めた。広田弘毅・元首相や重光ら文官は無罪が相当と訴えた。

 その後の戦犯法廷の発展を見ると、レーリンクの方が貢献は大きい。犯罪を裁くと同時に、犯罪が起きた土壌を根絶する役割が求められるようになった。

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