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【明治150年】第4部 万博(2)消えた東京万博 世界に 大久保利通の執念

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 6年6月にはウィーン万博を見学した。明治政府は会場に日本庭園を造り、浮世絵や陶器といった工芸品を出展した。一方、欧米各国は機械や電気などの最先端技術を競った。一行は、万博とは各国がしのぎを削る「太平の戦争」であると痛感。対抗するには国力を高めるしかないと確信した。

 帰国した大久保は、早速動いた。6年11月の内務省の設立だ。工場建設から生産、運搬、輸出まで管轄する巨大官庁で、大久保はトップの内務卿に就任した。

 しかし万博を開催する力は当時なかった。そこで、国内の産業奨励を目的に開いたのが内国勧業博覧会だ。万博にならい鉱業冶金(やきん)や農業など6つのパビリオンを設け、国内各地の産業を競わせた。出品数8万4千点、102日間の入場者数45万人と成功を収めた。

 くしくも大久保の郷里・鹿児島では開会の半年前、盟友・西郷隆盛と明治政府との西南戦争が始まっていた。西郷が自刃した10年9月24日も会期中だった。政府内には博覧会の先送りを求める声もあったが、大久保は断行した。万博という目標があったからだ。

 大久保は11年5月14日、東京・紀尾井坂で不平士族の手により暗殺された。その日の朝、大久保は面会者に語っていた。そこには万博をてこに、明治期に日本を世界に比する国にしたいという強い思いが宿る。

 「明治最初の10年は創業の時期、次の10年は内治を整備し産業を増進する時期、その次の10年は後進が事業を継承する時期だ」

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