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【本郷和人の日本史ナナメ読み】明治の女子教育(下)女性好き・伊藤博文と津田梅子の仲は・・・

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 懐かしい故国に帰ったはずなのに、梅子は苦悩することになります。明朗で活発だった彼女にとって、女性の社会進出に消極的だった明治の日本社会は、とてつもなく息苦しかったのです。捨松と繁子は早々に軍人に嫁ぎました(それぞれ陸軍元帥の大山巌(いわお)と海軍大将の瓜生外吉(うりゅう・そときち))。でも梅子は結婚に魅力を感じませんでした。「二度と結婚の話はしないでください。話を聞くだけでもうんざりです」と手紙にしたほどです。彼女は結局、生涯独身を貫きました。

 明治16年、伊藤博文と再会。英語指導や通訳のために雇われて伊藤家に滞在します。2年後には伊藤の推薦を受け、華族女学校の英語教師に任じました。ただし、ここで注目したいのは、伊藤と梅子の間に浮いた話が一切なかったこと。伊藤といえば、天下無双の女性好き。世話した女性が掃いて捨てるほどいたので、ついたあだ名が「箒(ほうき)」。でも、梅子には変な手出しはしなかった。彼女の前では、「気さくなお兄ちゃん」のままでいたかったのかな。ぼくが小説家なら、絶対に恋愛ドラマに仕立てたいところです。

 明治22年、再び渡米した梅子は、フィラデルフィア郊外のブリンマー・カレッジで生物学を研究。蛙(かえる)の発生に関する論文をまとめた彼女に、カレッジは研究者への道を勧めました。けれども誘いを断って帰国。女子教育のための学校の創設に奔走しはじめます。父の仙や大山捨松、瓜生繁子らがこれをバックアップ。「女子英学塾」(現在の津田塾大学)が東京麹町区に誕生します。明治33年のことです。

 女子英学塾は、華族平民の別なく塾生を受け入れ、それまでの行儀作法を主体とするような女子教育とは一線を画する、進歩的で自由な、レベルの高い授業を展開しました。独自の教育方針を守るため、資金援助をなるべく受けない方針をとり、そのため学校の経営はなかなか難しかったようです。塾長として無報酬で教壇に立った梅子はやがて健康を害し、鎌倉での長期の闘病の後、昭和4年に脳出血のため亡くなりました。満64歳。いま彼女は、小平市に居を移した津田塾大学の構内に設けられた墓所で眠っています。

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