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【話の肖像画】作家・古井由吉(3)母は病室で受賞を見ていた

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【話の肖像画】
作家・古井由吉(3)母は病室で受賞を見ていた

 すでに商業誌から小説の依頼もあったし、大学紛争にも嫌気がさして大学を辞めたんです。当時の物価からみれば原稿料もそんなに安くはなかった。とはいえ単行本(の自著)は1冊もないし商業誌に載ったのも2作だけ。妻と幼い娘が2人いる。そんな32歳の自営業なんて、いい度胸ですよ。大学を辞めてから娘を連れて通った団地の公園で、ふっと顔を上げるとたくさんの窓が自分を見下ろしている。「どの家庭も定職を持ち世間とつながっているんだな」と考えると何とも言えない心地がしました。

 そのうちに机に向かいきりの日々が始まります。ある女人像が浮かび、その姿を翻訳で鍛えた粘りのある文章で描こうとした。でも文章はぎこちない。「いくらでも直します」と言って文芸誌の編集者に渡したんだけれど、「いや、いいですよ」って…。

 〈そうして文芸誌「文芸」に発表されたのが、神経を病んだ女子大学生と、それに寄り添う男子大学生の交流を描く「杳子(ようこ)」。他者を切に求めながらもその手ざわりを感じとれない現代人の孤独の痛みが迫る一編は46年、第64回芥川賞を受けた〉

 結局、他人との関係や過去とのつながりが、その人の実在感を形づくる。個人がただの個人になっていくと、確たる実在感はどんどん失われていくのではないか-。そんな思いもあったのかもしれない。

 芥川賞を受けて「作家としてしばらくやっていける」とは思ったけれど、母(鈴さん)が末期がんで入院していたから舞い上がるわけにもいかなかった。母は消灯時間を過ぎた病室で、光が漏れないようにテレビに布のようなものをかぶせて僕の受賞のニュースを見ていたそうです。その1カ月くらい後に母は亡くなった。僕の家系はほとんど実務系だったけれど、母は必ずしもそうではなかった。顔も僕に似ていた。母の資質を一番受け継いだのは僕かもしれない。(聞き手 海老沢類)

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