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【話の肖像画】喜劇役者・大村崑(3)「オロナミンC」は最初断った

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 〈昭和28年、人気司会者の大久保怜に入門。笠置シヅ子や灰田勝彦、小畑実ら人気歌手の地方公演を受け持つようになった〉

 弟子入りして名前はどうするとなって、僕の本名の岡村と大久保から「大村」。名前は「昆」と付けてくださった。当時、売れていた医薬品の名前には最後に「ん」がついた。それに、愉快でめでたいヤツというシャレで、昆布から取った。ところが、コント台本に「崑」と間違って記された。でも師匠は「崑崙山(中国古代の伝説上の山岳)の崑。それでええ」と、そのまま通すことになった。姓名判断もせず、ええ加減なものでした。

 司会はようもうかりました。初任給1万円の時代に7、8万円。師匠に言われて声帯模写の勉強もしましたけど、へたくそで長続きしませんでした。

 新たな転機となったのは、灰田さんのショーでした。ショーの最後はいつも代表曲「野球小僧」。ワンコーラスを終えたら、舞台袖から僕がサイン入りボールを投げ、灰田さんがそれを受け取って客席に投げるというのがお決まりでした。でも、うまく届かない。少し前へ出て投げる。外れる。客席がわく。だんだん舞台中央に近寄る。最後は手渡しで届く距離から投げると、灰田さんはそれをヘディングで客席へ。それがまた受けるんです。このとき、歌手の縁の下にいるより、自分でお客さんを笑わせたいと思うようになりました。

 そのころ、僕の舞台を見ていた大阪・北野劇場の支配人が、師匠に「あの面白い子を貸してほしい」と言ったようで、昭和32年、師匠の許しを得て北野劇場の専属コメディアンになりました。

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