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【本郷和人の日本史ナナメ読み】名将たちの城攻め(下)「上洛」ではなかった信玄の目的

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】
名将たちの城攻め(下)「上洛」ではなかった信玄の目的

本多忠勝像(模本、東大史料編纂所蔵) 本多忠勝像(模本、東大史料編纂所蔵)

 「敵の兵が立て籠もる城を素通りするわけにはいかない」。それはなぜかというと、その兵に自軍の後方を攪乱(かくらん)されると、城を攻め落とすより多くの被害が出る可能性が高い。あるいは、戦力の低い補給部隊を狙われ、兵站(へいたん)線を遮断されてしまうと、自軍は飢えて戦えなくなってしまう-ここまではよろしいでしょうか。

 ぼくとしては、ここまででも結構ツッコミどころがあるように思うのですが、まあ、世の中ではそう説かれているように思います。だから関ケ原戦役の時、山形城を落としたい上杉軍なのに、その手前で長谷堂城攻めをしなくてはならなかった。一方で畿内を目指す前田軍は、堅城と名高い小松城を攻めずに、おそらくそれなりの兵数を小松城近くに張り付け、先を急ぐという戦術を採った。

 さて、そこで三方ケ原です。二俣城を落とした武田軍は、徳川家康が籠城する浜松城を素通りして西を目指した。家康は「ふざけやがって。おれを敵だと認めることすらしないのか」と激昂(げきこう)し、家臣が止めるのを振り切って、武田軍を後背から攻撃しようとした。ところがそれは信玄の罠(わな)で、武田軍は三方ケ原で徳川軍を待ち構えていた。結果、徳川勢は完敗し、家康は恐怖のあまり、う○こ漏らしながら浜松城に逃げ帰った。「怒って理性を失うと、とんでもないことになる」と家康は有名な「しかみ像」を描かせ、後の戒めとした-こんなことが言われてます。

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