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【書評】文芸評論家・伊藤氏貴が読む『老生』賈平凹著、吉田富夫訳

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【書評】
文芸評論家・伊藤氏貴が読む『老生』賈平凹著、吉田富夫訳

『老生』賈平凹著、吉田富夫訳(中央公論新社・3700円+税) 『老生』賈平凹著、吉田富夫訳(中央公論新社・3700円+税)

 ■人間の愚かしさ浮き彫りに

 歌で死者を送る弔い師という職業がはたして実在するのか、寡聞にして知らないが、あったとしても、本作の語り手のような、100年以上歌い続ける弔い師がいたはずはない。にもかかわらず、現代中国の片隅で語られたらしきこの物語は、どこまでも真実の響きに満ちている。

 「戦争の世紀」と言われた前世紀の暴風は当然中国大陸にも吹き荒れた。国と国との戦いあり、国共内戦あり、土地解放に伴う階級闘争あり、悪名高い文化大革命あり、そして再びその反動としての経済改革の波が押し寄せる。

 舞台となっている秦嶺は、場所こそ中国中央部だが、海抜2千~3千メートルの山脈沿いの貧しい辺境である。国民党が共産党になろうが、文革が起ころうが、庶民たちの貧しさには何の変わりもない。

 もちろんこの長い年月には、ただのならず者が時流に乗って共産党の大物に成り上がったり、逆に地主が土地解放によって平均以下の暮らしに落とされ惨めな末路を辿(たど)ったり、人によっては出世と没落を何度も繰り返したりと、それぞれの人生の浮き沈みは激しい。落ちゆく人々は哀れであるが、しかしすべての原因は人間の善意と悪意とにあり、全体を見渡すと、人間の愚かしさが浮き彫りになる。善意から発した改革であっても、思慮に欠ければその隙間にすぐに人の欲が入り込む。そもそもそれほど何度も繰り返さねばならない改革・開放とは何なのか。解放を繰り返すうちに、村人は逆に欲と互いへの猜疑心(さいぎしん)にとらわれる。

 とはいえ、作者はこの悲惨を哀調には染めあげない。むしろ『山海経(せんがいきょう)』という古代の奇書を随所に挟みこみ、不可思議な生き物を紹介する。近代的自我も確立されず、深く思慮しようとしないまま政府の新しい方針に振り回される人々は、化物と同じ他者として描かれるが、その姿はあくまでユーモラスだ。この空間で起きたことは、内部においては深刻だが、外から眺めれば滑稽にしか映らないだろう。つまり、そのただ中にいるかぎり、われわれは誰しも自分の時代の滑稽さに気づかないということなのだろうか。(中央公論新社・3700円+税)

 評・伊藤氏貴(文芸評論家)

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