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【小山評定の群像】(79)益子忠宗 リストラ後に変名?新説浮上 

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【小山評定の群像】
(79)益子忠宗 リストラ後に変名?新説浮上 

陶芸メッセ・益子遺跡広場は、掘立柱建物跡が発見された益子古城本郭跡。奥は益子陶芸美術館=栃木県益子町

 県内の有力武将、特に宇都宮氏周辺は1597(慶長2)年、宇都宮国綱の改易(かいえき)で没落し、小山評定は蚊帳の外。中には益子氏のように消息さえ分からない例もある。芳賀青年の家所長の松本一夫さんは「史料もなく、系図も混乱。分立していたことを反映している」と話す。

 益子氏は、三十六歌仙の一人、紀貫之で知られる紀氏を源流とする。清原氏の流れ、芳賀氏とともに宇都宮氏を支えた。益子は宇都宮氏が下野に勢力を拡大する最初の根拠地だったといい、松本さんは「紀清両党といわれ、鎌倉期は宇都宮氏の屋台骨を支えたが、戦国期には芳賀氏の力が強く、差をつけられた」。戦国時代、益子のほか岩瀬(茨城県桜川市)に根拠地を持つが、同じ宇都宮一族の笠間氏と領地が近く、対立が続いた。宇都宮、笠間、芳賀連合軍に攻められ没落。松本さんは「2、3家に分立していたので全滅したわけではない」とみる。

 戦国期の当主の名前さえも諸説あるが、県立博物館学芸部長の江田郁夫さんは、益子治宗が笠間氏と抗争後、隠居した睡虎斎(すいこさい)宗竹(そうちく)だったとみる。その後は忠宗が引き継いだ。

 小田原征伐の際、豊臣秀吉に拝謁した宇都宮国綱とともに益子の名が出てくるが、直後には益子城主として別人の名が残る。江田さんは「宇都宮の家中が再編された。豊臣大名として生き残るためには内紛があってはいけない。集権化が図られた」と説明する。益子氏は「ぴたっと姿を消すが、名前を変えて生き残ったのではないかと思い始めている」。

 伊勢神宮内宮の神官による佐八(そうち)文書は、最大支援者だった宇都宮家臣団の動向を伝える。いわば顧客リストである。この中で、「片岡駿河守殿」を「ましこ殿之事也(どののことなり)」と記している。これが忠宗だったのか。リストラで城主の地位は追われたが、「その後の人生があったはずだ」。江田さんは新見解を練っている。

            

 益子忠宗(ましこ・ただむね)生没年不詳。父は治宗。 

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