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【小山評定の群像(70)】喜連川頼氏 足利氏末裔の“小さな大大名”

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【小山評定の群像(70)】
喜連川頼氏 足利氏末裔の“小さな大大名”

喜連川藩城下町の「寒竹囲いの家」。5代藩主が藩士宅の生け垣として奨励した=栃木県さくら市喜連川

 喜連川藩を治めた喜連川氏は足利氏の末裔(まつえい)であり、5千石ながら格式は10万石並みの“小さな大大名”だった。陣屋は現在のさくら市喜連川庁舎(旧喜連川町役場)にあった。

 初代藩主・喜連川頼氏は、若くして病死した兄・国朝の後を継いだ。継いだのは家督だけではない。兄の妻、氏姫の再婚相手にもなった。氏姫は、古河公方家の意地を通したのか、古河城南東の鴻巣館(やかた)で生涯を過ごした。鴻巣館跡は現在、古河総合公園(茨城県古河市)として整備され、見応えのある花桃で知られる。

 頼氏は関ケ原の戦いに参陣していないが、徳川方に味方し、加増も受けた。江戸時代は「国主(国持ち大名)同様」「御三家同様」の特別待遇。さくら市ミュージアム荒井寛方記念館副館長の小竹弘則さんは「参勤交代はない。さまざな負担も免除されていた」と説明する。

 「喜連川文書」の「喜連川家格式書付」(1815年、個人蔵)に、日光での法要に使者を送るのは「国主同様」とか、正室に朱傘を用いるのは「御三家同様」とか、参勤交代免除は「諸大名になし」とか、いちいち書かれてある。藩主が家臣に宛てた遺訓で、外部に公表したものではなく、現在の格式を欠かぬよう行動を慎むことを戒めた内部文書だ。

 「参勤交代はしないが、藩主は年末に江戸へ行き、新年には将軍に挨拶した」と小竹さん。徳川将軍家に気を使っていたことが分かる。

 喜連川氏は明治時代初期、足利に姓を戻す。喜連川文書は散逸したが、子孫で著名な学者でもあった足利惇氏(あつうじ)氏(1901~83年)が収集し、旧喜連川町に寄贈した。同館では11月14日~12月23日、企画展「喜連川文書の世界」を予定している。

 ■喜連川頼氏(きつれがわ・よりうじ) 1580~1630年。足利頼純(よりずみ)の次男。関ケ原の戦い後、1千石の加増で4千石に。元禄年間には5千石になっている。

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