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【戦後70年~沖縄(2)】
地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」

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国民学校の代用教員を務めていた仲本潤宏(じゅんこう)(88)は20年3月、陸軍に繰り上げ入隊し、二等兵として対戦車速射砲部隊に配属された。「故郷・沖縄を守らねば」。迷いはなかった。
5月初旬、陣地の壕の入り口で歩哨に立っていると10歳くらいの男児が弟と泣きながら通りかかった。兄は肩をけがしていた。仲本は壕内に呼び入れ、三角巾で傷口を縛った。
すると軍曹が「陣地を暴露するとは何事か。軍紀違反だ」と軍刀を手に詰め寄った。仲本が観念すると25歳の小隊長(少尉)が現れ、軍曹を諭した。
「この戦争がお前の郷里であったとしたらどうする。われわれは国民、国を守るための兵隊なんだ」
だが、日米の物量の差は圧倒的だった。5月12~18日の「シュガーローフの戦い」では、速射砲2門で米軍戦車20両と戦わねばならなかった。
仲本は右足首を負傷し、伝統的な沖縄の墓の中に逃げ込んだ。一昼夜過ごし、石のすき間から外をのぞくと自動小銃を持った米兵の姿が見えた。「ここで死ぬのか」と覚悟を決めたが、その夜、愛媛県出身の先輩の上等兵が、米軍の艦砲射撃をかいくぐって救出に来てくれた。
仲本は南風原陸軍病院に入院したが、5月下旬に撤退命令が出ると、軍医や衛生兵は動けない負傷兵に青酸カリを配り、どこかへ消えてしまった。