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【戦後70年~沖縄(2)】地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 

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【戦後70年~沖縄(2)】
地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 

壕を爆破し、日本兵が出てくるのを、ライフルを構えて待つ米海兵隊員=1945年5月、米海兵隊撮影(ACME)

 20年1月、沖縄県知事に就任した内務官僚の島田叡(あきら)は、沖縄県警察部長の荒井退造とともに「疎開緊急計画」をまとめ、戦闘地域とならない沖縄本島北部への疎開を推し進めた。だが、密林が広がる北部は食糧が乏しく、南部に留まる人も少なくなかった。

 第32軍司令官の陸軍中将、牛島満が司令部のあった首里での決戦を避け、南部の喜屋武(きゃん)半島・摩文仁(まぶに)に後退し、持久戦を続ける決断を下したことも民間の犠牲者を拡大させた。

 制空権、制海権はすでに奪われ、援軍はない。最後は玉砕しかないならば、ゲリラ戦に持ち込み、米軍に少しでも多くの損害を与えた方がよい。牛島はそう判断したのだが、南部の密林やガマに避難してきた多数の民間人を戦闘に巻き込む結果を招いてしまった。

 学徒動員により、軍とともに行動した未成年者はさらに悲運だった。女学生を集めたひめゆり学徒隊だけでなく、沖縄師範学校や旧制中学の14~17歳の男子学生1400人以上が「鉄血勤皇隊」として防衛召集され、通信や伝令だけでなく戦闘にも参加、その半数が犠牲になった。

 第32軍高級参謀として持久戦の作戦計画を立てた陸軍大佐の八原博通は米軍の捕虜となり、戦後も生き残ったが、多数の民間人を巻き込んだことを終生悔やんだ。行商をしながら細々と生計を立て「沖縄の人たちにすまない。合わせる顔がない」と二度と沖縄の地を踏むことはなかった。

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