産経ニュース

【戦後70年~沖縄(2)】地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 

ライフ ライフ

記事詳細

更新

【戦後70年~沖縄(2)】
地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 

壕を爆破し、日本兵が出てくるのを、ライフルを構えて待つ米海兵隊員=1945年5月、米海兵隊撮影(ACME)

 島袋らが逃げ落ちた島南端の絶壁沿いに広がる密林には、日本兵と住民が息を潜めてひしめいていた。

 米軍は火炎放射器で周囲を焼き尽くしながら間近に迫ってきた。島袋も自死を決意した。だが、偶然再会した教師が紙片を差し出した。「死ヌノガ能ジャナイ」。これを見た島袋は生きる道を選び、ほどなく米軍に保護された。ひめゆり学徒隊で生き残ったのは教師を含め104人だった。

   × × ×

 東京大空襲や広島・長崎の原爆投下など米軍による一方的な殺戮(さつりく)はともかく、先の大戦中の日本軍による戦闘で、沖縄戦ほど多数の民間人が巻き込まれた例はない。なぜこれほど被害が拡大したのか。

 1つは本土や台湾への疎開が思ったように進まなかったことがある。

 昭和19年7月7日、東条英機内閣はサイパン陥落を受け、米軍の侵攻に備え、沖縄本島など南西諸島の老幼婦女子、学童の集団疎開を閣議決定した。

 だが、沖縄周辺の制海権は失われつつあった。8月22日には那覇国民学校の児童らを乗せ、那覇から長崎に向け出航した輸送船「対馬丸」が、米潜水艦の魚雷で沈められ、1400人以上が犠牲になった。

 疎開はその後も続けられ、九州や台湾に約8万人が疎開したが、多くの県民は疎開を嫌がった。「本土より沖縄にいた方がまだ安全だ」と思ったからだ。

このニュースの写真

  • 地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 
  • 地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 
  • 地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 
  • 地上戦の災禍(下) ひめゆり学徒隊を救った紙片 元二等兵「誰かが国を守らねば…」 

「ライフ」のランキング