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【文芸時評】3月号 商品にならない現実 早稲田大学教授・石原千秋 

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【文芸時評】
3月号 商品にならない現実 早稲田大学教授・石原千秋 

 若き日の夏目漱石は建築家を目指していたらしい。ところが、親友に〈文学なら何百年も何千年も残る〉と言われて文学に転向したと、自分で書いている。フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースが〈かつて神話が小説に取って代わられたように、いま私たちの目の前から小説が消滅しようとしています〉と話したのが1970年代。いまの小説家は漱石のように100年後の読者を想像することができるだろうか。

 このところ、大手出版社の就職希望者が目に見えて減ってきているという話を耳にする。本の読者が減ってきていることが、こういう形で如実に現れているわけだ。僕たちは、ずいぶん厳しい時代に文学と関わらなければならなくなったのである。いや、僕の世代はまだいい。「おくりびと」になればいいのだから。

 大江健三郎と古井由吉の対談「文学の伝承」(新潮)では、最近になってラテン語を再び勉強しはじめたと言う古井由吉に、大江健三郎が「『古事記』以来の日本語の文学のスパンで考えると、今後最初に消滅してしまうのが近代文学なのだろうと思います」と語りかけている。少し後の「文章を書いて、推敲(すいこう)するわけですが、何をもとにして推敲するか。自分の根っこは何か。今の時代はこれが難しい」という発言が、古井由吉の間接的な答えだろう。大江健三郎の『古事記』発言はレヴィ=ストロースの大きな話とも重なるが、それを小説家が具体化すると「推敲」の話になるのかと、独自の文体を持つ古井由吉の発言だけに感心して読んだ。

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