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≪アキとカズ 遥かなる祖国≫喜多由浩(1)

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≪アキとカズ 遥かなる祖国≫喜多由浩(1)

 1 2014年東京

  奇妙な「遺書」だった。

『にほんにかえりたい。おかあちゃんがにくい』

 ただそれだけ。遺書といわれねば気づくまい。紙くずみたいな、粗末でボロボロな紙に、平仮名だけの弱々しい文字が残っていた。血の痕なのか、赤茶けた染みが滲(にじ)んでいる。

 不可解な内容…。それを、外務省幹部である福田に持ち込んだ人物が、さらに戸惑わせた。父親の武である。大阪・天満(てんま)で明治から続く老舗の元主人。隠居して久しく、年はもう90近い。

「見てほしいものがあるんや。紹介したい人もおる」。突然、連絡があったのは1週間前のことだ。

 上京した武の後ろに、30歳ぐらいの痩せた男が見えた。浅黒い顔に短髪、急に間に合わせたような紺のスーツがだぶだぶだ。怒りと哀しみがない交ぜになった険しい目つきで福田をじっとにらみつけている。どうやら日本人ではない。

 武によれば、「遺書」は北朝鮮から逃げてきたこの男が預かってきた。かつて帰国事業で北朝鮮へ渡った日本人女性が命を絶つ前に書き残したという。

「ちょ、ちょっと、待ってくれよ」

 慌てて福田は父親の話をさえぎった。まるで話がつながらない。元商人の老人と脱北者、日本人女性の遺書…。それに「母親が憎い」っていったい何のことだ? だが、考えるのは止(や)めた。

 確かにこの遺書には、北朝鮮に渡った日本人女性の悲惨な人生が隠されているのかもしれない。だが、この手の話はヤマほどあるではないか。

 福田の前には外交課題が山積していた。過去最悪といわれる日中、日韓関係。急に動き始めた日朝…。「こんな雑事にかかわっている暇はないんだ」。ため息が出た。それに、政府の高官が父親の頼み事を私的に聞くわけにはいかない。

「もういいだろう。この話は聞かなかったことにする。その男とも会わない。脱北者の話なんて、いくらでもころがっているんだよ」

 強引にそう告げた、そのときだった。武は突然立ち上がり、鬼のような形相で息子を怒鳴りつけた。

「私は日本人の話をしている。お前はそれでも日本の外交官か。いやその前に日本人か!」

 ※登場人物や組織、団体などは、実在のものとは関係ありません。

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