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【本郷和人の日本史ナナメ読み】(56)家康が功臣を冷遇した理由

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】
(56)家康が功臣を冷遇した理由

徳川家康を長年支えた酒井雅楽頭家の当主、酒井重忠の肖像(模本、東大史料編纂所蔵)

 前回、驚くべき新説をご紹介しました。いわく、徳川家康と嫡子の松平信康のあいだに深刻な対立があった。信康の自害を望んだのは、通説でいわれている織田信長ではなく、実の父である家康だ、というものです。それに対してぼくは、家康が「信康の排除、具体的には切腹」を望んでいた説には賛成できない、と書きました。その根拠として1、酒井忠次のその後。2、徳姫のその後。3、家康と子づくり(補足…家康の後家好み)を挙げ、スペースの関係で2について述べました。今回は続いて1を。

 これは酒井忠次と酒井家への待遇が、ひどいんじゃないか、ということです。忠次の妻は碓井姫。松平清康と先に記した華陽院の娘。ですから忠次は家康のおじさんにあたる。年は16歳年長です。家康が子供の頃、人質(今川家への)として駿府に赴く時には、最高齢者として付き従いました。

 家康が成人すると、まさに右腕として彼を支えます。永禄7(1564)年には吉田(豊橋)城主となり、東三河の旗頭に(西三河は石川数正)。武田氏との外交・戦いでは常に先頭に立ち、とくに天正3(1575)年の長篠の戦いでは、別動隊を率いて鳶(とび)ヶ巣山砦(とりで)を急襲。名のある武将を討ち取って長篠城を救出し、武田軍の後方を遮断する大功を立てたのです。織田信長に激賞されています。

 本能寺の変の後には、信濃侵攻の大役を担い、天正13(1585)年に石川数正が徳川家を出奔した後は、名実ともに家康第一の重臣となりました。翌年、家中では最高位の従四位下・左衛門尉(さえもんのじょう)に任じられ、天正16(1588)年に長男の家次に家督を譲って隠居します。まあ、功成り名遂げて一線を退いたかたちです。

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