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≪アキとカズ 遥かなる祖国≫喜多由浩(187)

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≪アキとカズ 遥かなる祖国≫喜多由浩(187)

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 19章 1964年国境の村 九

「3年たったら日本へ里帰りできる」

「もうすぐ朝鮮は(北朝鮮によって)赤化統一される。そうなれば日本とも国交ができるだろう」

 帰国事業で北朝鮮へ渡る日本人妻は、言葉も習慣も違う国に行くことを不安がった。

 当然であろう。

 二度と祖国の土を踏めず、両親や家族と会えないことが事前に分かっていれば、ほとんどの日本人妻が参加を取りやめたに違いない。

 彼女たちの不安を打ち消すために、「北連」などが持ち出したのがこの“口約束”だったのである。

 テナー歌手、長田(ながた)健次郎の日本人妻、東川(とうかわ)民恵は“3年目の里帰り”を手紙にしたためて最高権力者の金日成(キム・イルソン)に訴え、労働党幹部の逆鱗(げきりん)に触れてしまう。

「あの女(民恵)を離婚しろ!」と、党幹部から迫られた長田は途方に暮れていた。

(党の決定に逆らうことはできない。だが、もし離婚すれば民恵は強制収容所に送られてしまうだろう。子供たちはどうなる。私の仕事は…)

 不安ばかりが襲ってくる。

 ただでさえ、最近は党とうまくいっていない。

 海外公演が認められたのは最初の1、2年だけ。飛び上がるほど喜んだ名門中の名門、ソ連のボリショイ劇場からの専属契約のオファーも党の意向で、断らざるを得なかった。

 北朝鮮国内での独唱会の機会もめっきり減り、音楽大学で後進の指導に回ることが多い…。

(私の歌はもうダメなのか? 首領様(スリョンニム)(金日成)はあれほど喜んでくださったではないか)

 長田は歌に殉じた男である。

 優先順位のトップはいつでも「歌」なのだ。

 どうしてもそれを諦めることができない。

 とうとう、長田は「民恵との離婚」に同意してしまった。

(もう一度歌うためなんだ。分かってくれ)

 民恵が家を出てゆくとき長田は見送らなかった。

 机の上に、置き手紙がある。

《あなたに迷惑をかけて申し訳ありません。あなたの歌が大好きでした。子供たちを頼みます》

 長田は男泣きに泣いた。

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