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【話の肖像画】作家・西村京太郎(83)(2)

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【話の肖像画】
作家・西村京太郎(83)(2)

終戦直前の東京陸軍幼年学校時代

 ■エリート養成 陸軍幼年学校へ入学

 <昭和16年12月、真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発した>

 真珠湾攻撃は国民学校に通っていたときで、ちょうど遠足の日でした。帰ってきたら灯火管制をやっており、町内は真っ暗。みんな「万歳、万歳」と言っており、すぐに手帳を買ってきて世界地図を手書きして、それからは日本が占領した場所に日の丸を書き加えていったのを覚えています。もっとも、この手帳は空襲で家がやられたとき、一緒に焼けてしまいました。

 国民学校を出た後は、東京府立電機工業学校に通いました。戦争が始まって、これからは工業が大事だろうと思ったのです。

 <20年4月には工業学校を中退し、難関を突破して帝国陸軍のエリートを養成する東京陸軍幼年学校に入学する>

 東条英機(元首相)の後輩になります。どうせ兵隊に行くのなら少しでも位が上の方がいいから士官学校を出て将校になろうと思い、2年生の時に試験を受けて合格しました。倍率は100倍くらいだったというけれど、B29の爆撃とかがあって試験勉強はあまりできなかったなあ。

 既に戦況は厳しく、毎日のように空襲がありました。学校は東京の八王子にあり、山に囲まれていたのですが、その上から急に米軍の艦載機が飛び出してくる。B29が来ればサイレンが鳴るけど、艦載機はそれがないので怖い。向こうもふざけており、帰るときに弾が余っているからといって銃弾を撃ち込んでくるのです。(乗組員の)顔が見えたという人もいました。

 そのとき、こちらは艦載機が飛ぶ方向とは直角に逃げるようにしていました。ただ、学校の敷地外に逃げると「ひきょう者」としかられてしまいます。8月2日の八王子空襲では学校の校舎も焼けましたが、それでも敷地外には出ていけなかったくらいです。

 校舎が焼けた後は、あらかじめ近くの山の中に建てておいた山小屋で授業を継続し、15日の終戦を迎えました。当時は10代で、死ぬというのは怖くないんですね。死というものをよく分かっていなかった。毎日爆撃されて勝てないと分かっていても、負ける気にもならない、という気持ちでいました。

 <入学してから4カ月ほどで終戦を迎える>

 事前に負けたと知らされた上で、8月15日の正午にみんなで玉音放送を聞きました。でも、終戦というのがよく分からない。教官からは「マッカーサーが陛下に何かしたら、お前たちが守るんだ」と言われ、その後もしばらくの間は訓練で体を鍛えていました。

 でも少しずつ友達が故郷へと帰っていき、自分も29日ごろに帰宅。家族は5月の空襲で実家が焼けた後、現在の東京都調布市付近に間借りしており、そこへ向かいました。(聞き手 小野晋史)

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