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【決断の日本史】(161)534年 「武蔵国造の乱」と大和政権

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【決断の日本史】
(161)534年 「武蔵国造の乱」と大和政権

 『書紀』が伝える東国進出

 皇統断絶の危機を救った「応神天皇の5世孫」継体天皇が亡くなると、長子の安閑(あんかん)天皇が跡を継いだ。ただ、この皇位継承はすんなりいかなかったらしく、異母弟の欽明(きんめい)天皇との間で「2つの朝廷が併存した」とする説(継体・欽明朝の内乱)も出されている。

 そして『日本書紀』は安閑天皇即位の西暦534年、東国で大規模な動乱があったことを記している。その経緯は、以下のようだ。

 武蔵国(東京・埼玉)では、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が国造(くにのみやつこ)(国を治める豪族)の地位を争っていた。小杵は関東全域に影響力を持つ上毛野(かみつけぬ)(群馬)の豪族・小熊(おくま)に支援を求め、使主を殺そうとした。それを察知した使主は大和に逃げ経緯を訴え出た。朝廷は使主を国造と認め、小杵を誅殺(ちゅうさつ)した。使主は感謝のしるしに4カ所の領地を屯倉(みやけ)として朝廷に差し出した。

 この時期、国造制度が成立していたかなど、疑問点はある。しかし、昨年亡くなった甘粕健・新潟大学名誉教授(考古学)は昭和45年に発表した論文「武蔵国造の乱」で、「乱の史実性は相当に高い」と結論付けた。

 甘粕氏は埼玉県行田(ぎょうだ)市にある埼玉(さきたま)古墳群中の二子山古墳(前方後円墳、墳丘長138メートル)を使主の墓に、群馬県藤岡市の七輿山(ななこしやま)古墳(同、145メートル)を小熊の墓と推測している。使主の後裔(こうえい)はその後も栄え埼玉古墳群を造営し続けたのに対し、小熊一族は勢力を削(そ)がれ七輿山に続く大古墳を築けなかったことも、説を裏付ける。

 「大和政権にとって、上毛野は軽視できない勢力でした。安閑元年の出来事かどうかはともかく、豪族同士の抗争を好機ととらえ、積極的に介入したことは間違いないでしょう」

 東国の古墳に詳しい清水久男・大田区立郷土博物館学芸員は43年前の論文の意義を高く評価する。(渡部裕明)

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