【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(35)日本が近代化した金融制度 高利貸に苦しむ朝鮮農民救う - 産経ニュース

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(35)日本が近代化した金融制度 高利貸に苦しむ朝鮮農民救う

朝鮮の農村風景。農業も日本統治時代に大きく発展した(当時の絵はがきより)
日本統治時代の朝鮮の金融組合の発展
 拓殖大学は、明治33(1900)年、台湾協会学校として創設された。初代校長は後に3度首相を務める桂(かつら)太郎である。海外で活躍する有為な人材育成を目的とし、同40年には、東洋協会専門学校(改称)京城分校(後に官立の京城高等商業)を開校。朝鮮の近代化に尽くそうと多くの若者たちが“海峡を越えた”。
 その一人に、重松●修(まさなお)(1891~1975年)がいる。朝鮮発展に捧(ささ)げた無私の生涯は『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(田中秀雄著)に詳しい。同校を卒業した重松は大正4(1915)年、朝鮮総督府の官吏になった後、同6年、朝鮮北部平安南道の陽徳地方金融組合理事に転じる。平壌から約150キロも離れた山深い厳寒の地であった。
 重松は、同8年3月に発生した大規模な抗日・独立運動「三・一事件」に巻き込まれて被弾。右足が不自由になりながらも、私財を投じて寒村に「養鶏」を根付かせ、「卵の代金を貯蓄させて耕牛を買う」というシステムを構築する。
 豊かになった朝鮮の農民たちは、やがて重松を「聖者」と呼び、功績を顕彰する頌徳(しょうとく)碑も建てられた。終戦まで朝鮮在任約30年。日本へ引き揚げたとき懐には、わずかな金しか残っていなかったという。
 ◆極めて幼稚な朝鮮経済
 重松がいた「金融組合」をつくったのは目賀田種太郎(めがた・たねたろう)(1853~1926年)である。
 米ハーバード法律学校(現大学)に留学、大蔵省主税局長などを務め、明治37年、第1次日韓協約の下で、大韓帝国の財政顧問に就任。紊乱(びんらん)の極にあった財政や金融システム、税制、貨幣制度の徹底改革・近代化に乗り出す。そのひとつが、農民に低利で資金を貸し付ける金融組合の設置(40年)だった。
 なぜ、金融組合が必要だったのか? 昭和11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』(京城日報編)にはこうある。
 《(大韓帝国時代は)経済の発達極めて幼稚で、貨幣制度乱雑を極め、高利の金貸し業者が跋扈(ばっこ)した…民衆は憐(あわ)れむべきもので、官吏と地主と高利貸の三大専制王に責められ…生き血を吸うもののために困殺(こんさつ)されんとしていた。かくして民衆の意気も、経済も、産業も、全く凋落(ちょうらく)衰微してしまっていた》と。
 農民を対象にする金融組合制度は、ドイツやベルギーの農村金融を参考に、相互扶助的な組織を目指したものだ。組合員は原則として朝鮮の小作農で、融資面では「成牛1頭分に相当する50円(後に100円)」を限度に低利資金を貸し付ける。当初は、農業の技術指導や種子や肥料、農機具の販売・貸与、農作物の委託販売なども行い、イメージとしては農協に近い。
 明治40年のスタート時には朝鮮全土に30の組合を設立、日本人理事に就任したのは30人全員が、後の重松のように東洋協会専門学校を出た若者たちだった。
 この低利融資は、荒廃していた朝鮮の農村を再生し、前近代的だった農業を大きく発展させる。
 『朝鮮金融組合史』(昭和4年、同金融組合協会刊)にある「貸付金を得て幸福に至る」という組合員・白仁順の例を紹介してみたい。いささか、講談調の記述で宣伝めくが、以下は、その大意である。
 《(朝鮮の)奸悪(かんあく)な地主の小作人であった白は13人の家族を抱えて生活費にも事欠き、地主に借りた金は積もり積もって大金に。その上、病気に罹(かか)り、地主から冷酷にも小作権を剥奪・退去を命じられてしまう…。困り切った白は紹介されて組合員となり、50円の貸し付けを受ける。一部を地主に返した後、牛や鶏卵などの商売を始めて貯蓄にも励んだ結果、数年後には牛10頭、田1町歩、資産500円を持つに至った》と。
 朝鮮全土に張り巡らされた金融組合網は、順調に組合数、組合員、貸付額を伸ばしてゆく。さらに、第一次大戦後の好景気を受けた大正7(1918)年の法令改正によって、農民だけでなく、「都市金融組合」として商工業者にも貸し付け(限度額300円)を行うようにもなった。
 同じ頃、旺盛になった朝鮮産業界の資金需要に応えるため、大韓帝国時代からの各農工銀行を統合して、長期金融を主な目的とする「朝鮮殖産銀行」が新たに創設されている。金融組合との連携も密にしながら金融システムのネットワーク化を進め、“産業の血液”を供給していった。
 ◆長崎十八銀行の盛衰
 日本が関与した草創期、朝鮮の金融業発展に寄与したのは、彼らだけではない。長崎の地方銀行「十八銀行」は、国立銀行時代の明治19年、朝鮮にいち早く仁川出張所(後に支店)を開設している。
 長崎港は朝鮮貿易の拠点のひとつだった。十八銀行史『百年の歩み』(昭和53年)はこう書く。《日清戦争は清国商人を朝鮮から一掃し、軍需景気をもたらした。長崎港の日清貿易は衰退した反面(はんめん)、日鮮貿易が浮上した》。貿易量の増加に伴い、同行の朝鮮支店は元山、釜山、京城など次々と増設されてゆく。
 勢い込んだ同行は明治40年、不動産金融を目的とした韓国拓殖銀行の設立を企図したが、果たせずに終わる。翌41年に拓殖移民、殖産資金供給を行う国策会社の東洋拓殖株式会社が設立されたからである。
 昭和11年には、ついに朝鮮からの撤退を余儀なくされてしまう。金融組合の商工業者への事業拡大などによってシェアが低下。在鮮全9支店を、前述した総督府主導で設立された朝鮮殖産銀行へ譲渡・廃止することになったのだ。
 全行本支店24のうち9つの支店廃止は大事件である。『百年の歩み』には悔しさがにじむ。《当行は朝鮮支店の維持存続に努力したが、現地金融機関の発展整備や内鮮交易による長崎の地位など往時に比し著しい変遷を…》
 対して、朝鮮総督府は財務局長声明を出して同行の業績をたたえた。《その功績は没すべからず…(朝鮮)半島金融史上に長くその功績を留(とど)める》と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員  喜多由浩)
●=高の右に昇