台湾に生きた明治日本人の精神 拓殖大学学事顧問・渡辺利夫

正論

 「私が1日休めば、日本の近代化は1日遅れるのです」

 パリ留学中、夜を日に継ぐ猛勉強に体を壊しかねないと気遣う下宿の女主人が、ある朝、高熱でうなされながらなお大学に向かおうとする古市公威(こうい)に、“今日は1日休んだらどうか”と声をかけたのだが、その際に古市の口から出た言葉だという。

 ≪「人類ノ為メ 国ノ為メ」≫

 古市とは、信濃川、阿賀野川などの河川工事の監督にあたり、明治期日本に河川・港湾工学の黎明(れいめい)を告げた人物である。西洋文明をいち早く吸収して独立不羈(ふき)の近代国家たらねば、日本は文明国の一員として生存できない。自分は今、国費で賄われ西洋文明吸収の最前線にいる。高熱など恐れているゆとりはない。強烈なエリート主義とナショナリズムを背負う明治の技術者の気概をこのエピソードは物語っているのであろう。

 古市は後に東京帝国大学工科大学長となり、その門下生に広井勇(いさみ)を得た。広井は、北海の激しい風浪の小樽港に防波堤を構築したことで知られる技術者である。古市の後を襲って工科大学教授となり、「広井山脈」と呼ばれる逸材を近代日本に供給し続けた。

 広井の門下生の青山士(あきら)は、工科大学を卒業するやパナマ運河の建設に加わることを決意。単身、熱帯病の猖獗(しょうけつ)する建設現場に赴き作業員となり、力量を買われて測量技師になった。帰国後の青山に任されたのが信濃川大河津分水事業という世紀の難事業であった。竣工(しゅんこう)を記念して建てられた川沿いの碑には「人類ノ為メ 国ノ為メ」と刻印されている。何としなやかにも美しい表現であろうか。

 ≪10年の粒々辛苦の果てに≫

 広井を師とし青山を先輩として畏敬する八田與一は、明治43年の工科大学卒業と同時に、迷うことなく未開のフロンティア・台湾に向けて出立、台湾総督府土木課の技術者となった。

 台湾の中央部には北回帰線が走る。回帰線の北側は亜熱帯、南側は熱帯モンスーン気候に属する。稲作適地は台湾南西部の嘉南平原である。しかし15万ヘクタールに及ぶ平原の農地も、八田が初めて訪れた頃は全くの「看天田」であった。不作、凶作、豊作は天の采配次第で、人為ではどうにもならない。

 乾期には土壌が干上がり固まって鋤(すき)により耕起をしようにも歯が立たない。台湾には中央山脈と呼ばれる脊梁(せきりょう)が南北に連なる。雨期の大量の水は、分水嶺(れい)から急峻(きゅうしゅん)な山地を流れ落ち、平原を奔流し氾濫して田畑を埋没させてしまう。嘉南平原の開発とは、雨期における水の制御、乾期における給水の確保、つまりは水利灌漑(かんがい)施設の整備に他ならない。

 第一次大戦での内地の米不足が、富山など全国各地で米騒動となって頻発した。総督府幹部はかねて聞き及んでいた八田の構想を実現するよう命じた。構想は壮大であった。阿里山に源流を発する曽文渓の水系に烏山頭(うさんとう)という場所がある。ここに堰堤(えんてい)を構築、ためた水を嘉南平原に流す。

 なお不足する貯水量を得るために烏山嶺に3000メートルを超える隧道(ずいどう)を掘削。堰堤から放たれた水は、地球を半周するほどの総延長となり、あの荒涼たる平原が広大な緑の絨毯(じゅうたん)へと変じたのである。

 堰堤構築方法、「三圃(さんぽ)制」といわれる欧州中世の農法の平原への援用、ハード・ソフトの両面でみせた八田独自の構想の実現であった。起工から竣工まで実に10年の粒々辛苦の帰結でもあった。

 ≪「職分」を全うすることが務め≫

 粒々辛苦といえば、「蓬莱(ほうらい)米」の開発に20年近い歳月をかけ、ついに成功した人物に磯永吉がいる。磯が東北帝国大学農科大学を卒業し、台湾総督府に赴いたのは、八田よりやや遅れて明治45年だった。主食たる米の不足の解消という課題への挑戦であった。

 稲の品種改良とは、優れた特徴をもつ品種の雌蕊(めしべ)に別の優れた特徴をもつ品種の花粉を付着させて交配し、双方の優良な特徴をあわせもつ新品種を創出することである。人工交配というただひたすらに単調な仕事を重ね、ようやくにして手にできるほとんど僥倖(ぎょうこう)というべきものである。

 前方に曙光(しょこう)のみえない作業を続けることほど、人間をひどい無力感に貶(おとし)めるものはない。常人なら精根尽き果てるであろうが、磯の持ち前は根気であった。

 八田も磯も明治19年の出生である。いずれも帝国大学出身のエリートであり、技師であった。2人を衝(つ)き動かしていたものは、技師として全うすべき「職分」であったのに違いない。18年に陸軍大学を卒業、19年には陸軍騎兵大尉に任じられた秋山好古に、司馬遼太郎はこう語らせている。

 「軍人というのは、おのれと兵を強くしていざ戦いの場合、この国家を敵国に勝たしめるのが職分だ」「それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、思慮がそのぶんだけ曇り、みだれる」

 台湾統治にエリート技師としての職分を存分に果たした八田と磯という2人の日本人の中に、私は明治の精神をのぞきみている。(わたなべ としお)