ゲームクリエーター・田尻智(3)フリークが集まった

話の肖像画
東京高等専門学校に通っていた頃(本人提供)

 〈ポケットモンスターを生み出すよりずっと前、東京工業高等専門学校(東京高専)在学中の昭和58年、ミニコミ誌「ゲームフリーク」を創刊。これがゲームの世界へ本格的に関わる端緒となった〉

 ゲームが好き、というのがまずあって、ハイスコアを出すコツとか裏技とかを編み出したりしたんだけれど、それを話せる相手がいなかった(笑)。相当なゲーム好きでないと、「おおっ、スゴイ」という反応は返ってきませんからね。どうしたらゲーム好きの人たちと情報交換できるかを考えて、編集したのが「ゲームフリーク」です。

 新作ゲームや攻略法などを手書きし、コピーしたのをホチキスで留めただけで、新宿(東京)にあった同人誌を扱う書店に「これ、置いてください」と…。1冊10ページ余りで200円。フリーク(心酔者)と名付けたのは、ただのファンで終わりたくない、という思いがあったからです。

 〈同誌は毎号ほぼ完売状態。編集に協力したいと、ゲーム好きの仲間たちが次々に集まってきた〉

 マンガやアニメの同人誌はあっても、ゲーム専門のものは当時はほとんどありませんから、創刊号から反応は良かったです。でも、送られてくる手紙の中に「もう少しマシな絵を描いた方がいい」というのがあって(笑)。手紙の主が、後にポケモンをはじめゲームキャラクターのデザインを担当することになる杉森君(杉森建・現ゲームフリーク常務取締役)。彼は漫画家志望で、すぐに意気投合して表紙などのイラストをお願いしました。

 ほかにも「ゲームフリーク」を読んで集まった仲間たちが編集に加わって、杉森君がアパートで1人暮らしを始めると、そこにみんな出入りするようになり、毎日毎日、ゲーム、ゲームでした(笑)。

 〈そんな生活を、両親はどう思っていたのか〉

 僕が部屋に引きこもってゲームをしていたら、父も母も心配したでしょうね。しかし僕はゲームの魅力や将来性などについて、家の中でも積極的に話していたから、ある程度は理解してくれていたんじゃないかな。母や妹も「ゲームフリーク」のホチキス留めなどを手伝ってくれましたし…。もっとも小遣いは多くなかったから、ゲーム代を工面するのにいつも苦労していましたけれど(笑)。

 〈東京高専卒業後は、プロのゲームライターとしても活動するようになる〉

 「ゲームフリーク」を創刊した年に任天堂からファミコン(ファミリーコンピュータ)が発売され、急速に普及し始めた。一般の出版社も「ファミコン通信」などのゲーム専門誌を発行するようになり、在学中からアルバイトで執筆していました。当時はゲームライターが少ないから依頼も多く、新作紹介や攻略法などのほか、コラムも書かせてもらった。一方で「ゲームフリーク」の発行も続け、収入が安定したので編集部を都心に近い下北沢(東京都世田谷区)に移したのです。忙しかったけれど、充実していました。

 〈そして、新たな夢が芽生えはじめる〉

 ゲームの魅力を知れば知るほど、こうすればもっと面白くなるとか、こんなゲームがあれば売れるとか、考えるようになりますよね。実際、ゲーム会社に提案もしたんですが、採用されませんでした。それで思ったんです。だったら自分たちでつくればいいじゃないかって…。(聞き手 川瀬弘至)