【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(34)統治四半世紀の「発展」 日韓併合で朝鮮民衆は救われた - 産経ニュース

【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】(34)統治四半世紀の「発展」 日韓併合で朝鮮民衆は救われた

京城駅。日本統治時代に建設された朝鮮の鉄道網は5000キロを超えた
日本の朝鮮統治による変化
昭和8年度朝鮮総督府特別会計
宇垣一茂
 日本の朝鮮統治は、第6代朝鮮総督(昭和6~11年)、宇垣一成の時代に、「四半世紀」を超える。ある程度の“腕力”をもって朝鮮の近代化に道筋をつけた「武断政治」の時代、大規模な抗日・独立運動「三・一事件」(大正8年)以降の緩やかな「文化政治」の時代を経て、朝鮮統治は、安定成長期に入っていたといえるだろう。それ以降は、戦時体制の中で、朝鮮統治も皇民化政策が次第に色濃くなってゆく。
 四半世紀の日本統治によって朝鮮はどう変わったのか? この時期の『宇垣一成日記(一如庵随想録)』の記述を見てみたい。
 《日韓併合ができたればこそ、朝鮮民衆は暴虐の悪政から匡救(きょうきゅう)(悪を正し危難から救うこと)されて文化幸福に浴しつつある…》(昭和7年2月)
 多少の“上から目線”を感じないでもないが、それが「真実」であった。朝鮮のカネ・コネによる政治腐敗によって住民は苦しめられ、近代化が絶望的に立ち遅れていたことは、何度も書いてきた通りである。
 宇垣が「南綿北羊」の農業振興策を進めたことは前回(33回)書いた。朝鮮全土を混乱状態に陥らせた「三・一事件」は道路、鉄道、港湾などのインフラ整備、農、工、商、林業の振興、教育や衛生環境の改善を一時、頓挫させたが、「文化政治」以降、それらの施策は再び加速され、より充実度を増してゆく。
 ◆植林で禿げ山を緑化
 《山の多きは…国民の幸福である。水源の涵養(かんよう)、気候の調節…燃料および建築材の供給地…紙や人絹や綿の原料たらしむることを得るのみならず、羊、牛、馬の家畜類の放牧地ともなり得る…》(7年6月)
 「禿(は)げ山」は朝鮮の悪(あ)しきシンボルだった。11年発行の『25年!朝鮮は何を得たか?』によると、朝鮮は全国土の約4分の3を林野が占めるが、乱伐や火田民(焼畑農業)によって荒廃が激しく保水力の消失による災害も多発していた。
 日本は、朝鮮の植林・緑化に努め、8年までに行った植林事業は、国費経営事業だけで、造林面積約6万2千町(1町=約100アール)、植林本数約1億900万本に上った。
 《朝鮮の工業は、現在においては幼稚である。しかしながら、繊維および軽金属工業の原料は豊富であり…石炭、水力発電、労力なども潤沢かつ安価に供給し得る…母国(日本)工業が圧迫を感ずる日もあまり遠き将来にあらざるべし》(8年7月)
 再び、『25年!朝鮮は何を得たか?』によれば、李朝末期の朝鮮の工業は、小規模で、産額は小さく、技術は幼稚、製品すこぶる粗悪…とひどい書きようである。潜在的なポテンシャルは高いのに、商工業は蔑(さげす)まれ、産業らしい産業もない。
 その朝鮮の工業が「日本を追い越す日も近い」というのだから、宇垣の“大風呂敷”かと思いきや、官民の積極的な投資によって紡績、製鉄、セメント、硫安などの大規模工場が次々と建設。8年の工場数は約4800、従業員数は約12万人、生産品価額は約3億6700万円…こちらも四半世紀で急成長する。
 ◆台湾並みは果たせず
 朝鮮経営の収支は常に「赤字」であり、日本は一般会計などから毎年巨額の“持ち出し”で支えた。
 《(天皇)陛下より…台湾のように財政の独立もできるのか、との御(ご)下問がありました。余(宇垣)は今後、大(おおい)に努力致しましたならば、あまり遠からざる将来において、台湾並みの財政独立は難事にあらずと存じます》(昭和8年12月)と“大見えを切った”が、こればっかりは、終戦まで果たせなかった。税率は低く抑えたのに、朝鮮近代化のための資金は、いくらでも必要だったからである。
 その成果をデータで見てみよう。日韓併合(明治43年)時と「文化政治」開始後の大正10年ないし11年との比較である。朝鮮全産業の生産額・約3億600万円→14億7千万円(約5倍)▽輸(移)出入額・約6千万円→約4億7千万円(約8倍)▽道路延長は約13倍となった。
 四半世紀となれば、さらに数値は跳ね上がる。
 李朝末期には、司法と行政の権限があいまいで、地方官吏が賄賂を受け取り恣意(しい)的に投獄されたりもする“人治主義”がまかり通っていた。その悪弊を駆逐するために、近代的な司法制度・警察制度を整備してゆく。司法では高等法院、覆審法院、地方法院の三審制を実施。朝鮮人の判事・検事や警察官の登用も積極的に行ったのである。
 ◆朝鮮は日満間の鎹
 宇垣の総督時代は、内外とも激動期にあった。就任直後(昭和6年9月)には、満州事変が勃発、関東軍主導で7年3月には満州国が建国されている。退任の年(11年)には、陸軍青年将校らによる「二・二六事件」が発生している。宇垣は、激動の時代こそゆえ、朝鮮のチャンスと見た。
 《朝鮮は実に今は時処(じしょ)を得ている…内地の不安、満支の紛々、世界の擾々裡(じょうじょうり)に超越して極めて平静に漸進しつつある…(朝鮮の)立場は大陸への桟橋であり、日満間の鎹(かすがい)であり…その心臓部に相当している。実に天与の処を得ている。(略)(これまでの「他力主導」の)陋習(ろうしゅう)を清算して…物心両方面の新建設に邁進(まいしん)せざるべからず!》(10年10月)と。=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)
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【プロフィル】宇垣一成(うがき・かずしげ) 慶応4(1868)年、現在の岡山市生まれ。陸軍士官学校卒。陸軍大将。陸相、外相、戦後、参院議員。昭和12年には“陸軍を抑えられる首相”として、組閣の大命が下ったが、陸軍の抵抗に遭い、宇垣内閣は土壇場で実現しなかった。朝鮮総督は6年6月から5年余り務め、農業や商工業の振興を図り、内鮮融和を提唱した。31年、87歳で死去。