大帝崩御 偉大な祖父の尊顔を、皇子はまぶたに焼きつけた

昭和天皇の87年
画=豊嶋哲志

明治の終焉(1)

 明治天皇の様子に、明らかな異変がみられたのは明治45年7月15日、枢密院会議の席上だった。

 ふだんの明治天皇は、会議で玉座につくや端然とし、微塵(みじん)も姿勢を崩さない。ところがこの日は、閣僚や枢密顧問官が居並ぶ中で、居眠りをはじめたのだ。

 日露の秘密協約に関する会議である。交渉経過を説明するはずだった首相の西園寺公望らは、はじめて見る異変に戸惑い、狼狽(ろうばい)した。

 何より明治天皇自身が驚いた。会議終了後、左右の近侍に「重要な会議なのに疲労に堪えず、覚えず座睡を3回もしてしまった」と漏らしたと、宮内省編集の『明治天皇紀』に記されている。

 明治天皇は翌16、17日も公務につくが、不整脈がみられ、18日には「終日恍惚(こうこつ)として仮眠」する状態だった。そして19日の夕食時、「眼がかすむようだ」と言って椅子から立ち上がり、よろけるように倒れた。近侍らが慌てて布団に寝かせたが、40・5度の高熱で、やがて昏睡(こんすい)状態に陥った。

 翌朝、東京帝国大医科大教授の医師2人が尿毒症と診断。急ぎ参内した元老、閣僚、陸海軍大将、枢密顧問官らは愕然として色を失った。

× × ×

 慶応3(1867)年に14歳で即位した明治天皇は、極東の小国から世界の一等国へと急成長を遂げた近代日本の、大黒柱そのものだった。外は日清日露の戦役に勝利し、内は大日本帝国憲法を制定して法治国家となりえたのも、絶大なカリスマだった明治天皇の存在抜きには語れない。

 21日、新聞各紙が「聖上陛下御重態」と一斉に報じると、皇居の二重橋前には無数の国民が連日群がり、夜になっても去らなかった。

 宮殿には皇族や重臣らが入れ代わり立ち代わり参内し、明治天皇を見舞った。当時10歳の裕仁親王も、9歳の雍仁(やすひと)親王も、1日おきに参内した。

 のちに雍仁親王が、こうつづっている。

 「お見舞に参内するたびに僕らを驚かせたものは、七月末の炎熱下、二重橋前の砂利の上に坐って、幾百人、否、幾千人であろう人々が、天皇陛下の平癒を祈る姿であった。僕らは日ごろから、祖父上を肉親というよりは公人、天皇として偉い方だと考えるように習慣づけられていたのだが、この光景を見ては、これほどにお偉いのか、といまさらのように驚嘆の瞳を見開かないわけにはいかなかった」

 ただ、雍仁親王も述懐するように、明治天皇は「肉親というよりは公人」だった。病床の祖父を見舞う際には、複雑な思いもあったようだ。

 雍仁親王が続けて書く。

 「このおじい様は、世間のおじい様が、眼の中に入れても痛くない、というような孫の可愛いがり方は、一度だってされたことはない。(中略)ただ、物心もつかないころから周囲の人々によって、先入主的に教えこまれた形式的の敬慕、といったようなものがあっただけである。いつわらないところは、むしろ『こわい』『おそろしい』といったものであった」

 「いよいよ御病室の近くに行くと、静かにと注意された。入口をまわって室の外、お枕の方からお辞儀をし、御様子を伺ったが、わずかに頭髪がやっと見えるくらいのものだった。実はおそろしくてそれ以上は見ようとしなかったのだ。断続的に、お苦しそうな声が聞えるのだから、いたたまれない気持でいっぱいで、もじもじしながら、なるべく眼をそらせて、しばらくそこに坐っていた」

 国民を赤子とする明治天皇は、肉親への愛情表現を極度に抑制するところがあり、皇女が参内しても会わなかったと伝えられる。年少の雍仁親王が、祖父に対して「むしろ『こわい』『おそろしい』といった」感情を抱いたのも無理はない。

× × ×

 だが一方、裕仁親王は、雍仁親王とは異なる感情を抱いたようだ。保母役だった足立孝が当時を述懐する。

 「(明治天皇を見舞った裕仁親王が)還御されるとき廊下の所でおむずかりになるんです。『どう遊ばしたんですか』と言うと、「きょうはおじじさまの御対面が短かった」とおっしゃる」

 足立によれば、大抵の人は明治天皇の前に立つと萎縮し、何も話せなくなるが、「迪宮(みちのみや=裕仁親王)さまだけは平気で、『おじじさまこれを拝見』と、置いてある置物などを御拝見になった」という。

 見舞いのときに裕仁親王は、これが祖父、明治天皇との最後の対面になるかも知れないことを悟り、面会時間の短さを嘆いたのだ。

 同年7月29日、《午後十時四十三分、天皇崩御す。急報により、午後十一時十二分(裕仁親王は)雍仁親王・宣仁親王と共に御出門、御参内になり、御尊骸に御拝礼になる。皇后(昭憲皇太后)より御尊顔を御記憶になるべき旨のお言葉あり》

 敬愛する祖父であり、偉大な天皇であった最期の顔は、裕仁親王の小さな胸に、どう刻まれたことだろう。

 悲しみの谷底は、まだ先にもあった。

 学習院長の乃木希典(まれすけ)が、明治天皇のあとを追って殉死したのである--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜、日曜掲載)

【参考・引用文献】

○宮内省編『明治天皇紀 第12』(吉川弘文館)

○秩父宮雍仁親王著『皇族に生まれて-秩父宮随筆集』(渡辺出版)

○栗原広太著『人間明治天皇』(駿河台書房)

○鈴木(旧姓足立)孝著「天皇・運命の誕生」(文芸春秋編『昭和天皇の時代』所収)

○宮内庁編『昭和天皇実録』3巻