【明治150年】第4部 万博(2)消えた東京万博 世界に 大久保利通の執念 - 産経ニュース

【明治150年】第4部 万博(2)消えた東京万博 世界に 大久保利通の執念

幻の東京万博
 東京を流れる隅田(すみだ)川の最下流に架かる勝鬨(かちどき)橋(中央区)は、中央部が開閉する可動橋として昭和15年6月に完成した。今や開くことはないが、この橋は都心と湾岸部の「東京万博」の会場を結ぶ玄関口だった。
 正確を期せば「玄関口になるはず」だった。開戦の足音が聞こえていた15年3~8月、埋め立て地だった晴海(はるみ)や豊洲(とよす)一帯、横浜市で、日本初となる万国博覧会(万博)の開催が決まっていた。国内外の28のパビリオンが林立し、想定入場者数は4500万人。宝くじ付きの入場券も発売された。
 この年は神武天皇の即位から数えて皇紀2600年の節目でもあった。東京では9~10月に夏季五輪の開催も決定済みだったが、12年に始まった日中戦争のあおりなどで13年7月、五輪は中止、万博は延期になった。勝鬨橋だけが「東京万博」の遺産となった。
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 中央区教育委員会総括文化財調査指導員の増山一成さんは「明治以来、列強に比肩する国として海外にアピールするため、日本は万博をやってみたいと思っていた」と話す。「東京万博」の萌芽(ほうが)は明治初期にさかのぼる。
 明治10年8月、東京・上野で開催された第1回内国勧業博覧会。推進したのは大久保利通(としみち)だった。大久保は4年から、岩倉具視(ともみ)を団長とする岩倉使節団の副使として欧米を視察。英国で機械化された工場を見て、国力の差に圧倒された。
 6年6月にはウィーン万博を見学した。明治政府は会場に日本庭園を造り、浮世絵や陶器といった工芸品を出展した。一方、欧米各国は機械や電気などの最先端技術を競った。一行は、万博とは各国がしのぎを削る「太平の戦争」であると痛感。対抗するには国力を高めるしかないと確信した。
 帰国した大久保は、早速動いた。6年11月の内務省の設立だ。工場建設から生産、運搬、輸出まで管轄する巨大官庁で、大久保はトップの内務卿に就任した。
 しかし万博を開催する力は当時なかった。そこで、国内の産業奨励を目的に開いたのが内国勧業博覧会だ。万博にならい鉱業冶金(やきん)や農業など6つのパビリオンを設け、国内各地の産業を競わせた。出品数8万4千点、102日間の入場者数45万人と成功を収めた。
 くしくも大久保の郷里・鹿児島では開会の半年前、盟友・西郷隆盛と明治政府との西南戦争が始まっていた。西郷が自刃した10年9月24日も会期中だった。政府内には博覧会の先送りを求める声もあったが、大久保は断行した。万博という目標があったからだ。
 大久保は11年5月14日、東京・紀尾井坂で不平士族の手により暗殺された。その日の朝、大久保は面会者に語っていた。そこには万博をてこに、明治期に日本を世界に比する国にしたいという強い思いが宿る。
 「明治最初の10年は創業の時期、次の10年は内治を整備し産業を増進する時期、その次の10年は後進が事業を継承する時期だ」
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 大久保の夢だった万博は、財政難などで延期を繰り返した上、昭和15年の開催が決定したが、戦争のあおりで消滅した。
 戦前は全てが国威発揚のためだったとの説がある。しかし全てではない。「東京万博」は皇紀2600年記念の冠がついていたが、経済界が中心となって万博開催を働き掛けたのは、記念事業が計画されるより前の昭和4年だった。
 戦争までの東京は「銀座はおしゃれな服装の女性でにぎわい、百貨店の建設ラッシュだった」(増山さん)。日本大文理学部の古川隆久教授も「東京万博」は「国威発揚より、都市改造や観光客誘致のためだったことが大きい」と語る。
 万博では、欧米でも始まっていなかったテレビの試験放送や、新幹線につながる高速列車の展示計画もあった。予定通り開かれていれば、「戦後の高度経済成長が20年ぐらい早まっていただろう」(古川さん)。
 戦争で消えた幻の万博が大阪で実現したのは30年後、高度経済成長を経た昭和45年だった。