【話の肖像画】小説家・真山仁(3) 坂東玉三郎「取材受けるなら真山に」 - 産経ニュース

【話の肖像画】小説家・真山仁(3) 坂東玉三郎「取材受けるなら真山に」

小説家の真山仁さん=東京都文京区(大竹直樹撮影)
 〈昭和天皇が崩御し、元号が平成になったことで一躍脚光を浴び、観光客が全国から押し寄せた住民37人の集落があった。岐阜県武儀町(むぎちょう)(現・関市)下之保大門(しものほだいもん)の平成(へなり)地区だ。平成が幕を開けたそのとき、中部読売新聞(現・読売新聞中部支社)岐阜支局関通信部の記者として、この「平成フィーバー」を前線で取材していた〉
 本当にすごい騒動でした。ただ、そもそもなぜこんなに騒ぐのか、俯瞰する視点がないとも思いました。平成元年は、日本にとって非常に象徴的な1年で、年末にはバブルがはじけます。だましだまし積み上げてきたものが瓦解した年だったのです。
 〈上司とぶつかることも多かった。岐阜弁を覚え警察幹部から特ダネも引き出したが、些細な記事内容で勝敗が決まる競争原理に嫌気もさしていた〉
 JR高山線でおじいちゃんの家に遊びにきていた孫3人が列車にはねられ亡くなる事故がありました。現場に一番乗りし、動揺するおじいちゃんから30分くらい話を聞いて原稿にしました。
 最初は上司から「よくやった」と言われましたが、名古屋の本社にいた幹部は「もう一つインパクトがない」と言うのです。「おれのせいだ」とおじいちゃんがほぞをかむ見出しで行きたいと言うのです。だから、そのカギ括弧(話した言葉の意)を取ってこいという指示でした。「納得できない」と抵抗しましたが、支局のデスクは「おかしいかどうかはカギ括弧を取ってから言え」と。再びおじいちゃんの所に行くと、「もうそっとしといてくれ」と断られました。上司からは「こんな記事も書けないお前は記者じゃない」と言われたのを覚えています。
 〈2年半で新聞社を辞め、フリーライターに転じたが、収入は激減した〉
 あのまま記者を続けていれば現実に安住し、小説家になる夢を捨てなければいけない。一度ゼロになった方がいいと思いました。記者を辞める前にローンで280万円の新車を買い、すぐに200万円で売って、当座の生活資金に充てることにしましたが、あっという間になくなりました。働かなくてはいけません。小説を書くため、生きるために、お金を稼ぎたかった。歌舞伎やミュージカルなどのエンターテインメント関連の広告記事を書きました。
 初期の頃、歌舞伎役者の坂東玉三郎丈にインタビューする仕事がありました。後に人間国宝になる天下の玉三郎です。取材時間はわずか30分。資料は現地で渡すということで予備知識はありません。歌舞伎も見たことがありません。専門的なことをうかがっても仕方ないと思いました。
 名刺を渡したときのことです。玉三郎さんにじっと見つめられました。30秒くらいでしょうか。これで目をそらしたら負けると思って私もじっと見つめて、「歌舞伎を見たことないんですよ」と。玉三郎さんは「新聞を読みながらいろいろ想像しているんです」と話してくれ、「ファストフードが日本をダメにしている」と言うんです。社会にものすごいアンテナを張っている方で、「人間が分からないと歌舞伎は分からない」とおっしゃる。私は、伝統的な日本をどう守るか、という記事を書きました。
 取材後に食事に誘われましたが、「私の仕事は食事をすることではないので」と断りました。単刀直入に言ったことを気に入ってくれたのかもしれません。その後、取材を受けるなら真山に、と指名してくれるようになりました。(聞き手 大竹直樹)