小説家・真山仁(2)新聞記者になった理由は

話の肖像画
「香住究」というペンネームの共著で出した『連鎖破綻 ダブルギアリング』の出版パーティで(本人提供)

 〈骨太の作風で知られる小説家。その原点は、少年時代にあった〉

 少年時代は吃音(きつおん)で苦労し、コンプレックスと闘ってきました。しゃべりたい自分と、しゃべるとどもってしまう自分の間で葛藤があったのです。小学校の学級会では、「こういう面では良いかもしれないが、こういう視点を忘れているし、もしこういうことをしたらどうするの?」といった具合に反対する面倒くさい子供でした。結果的に、学級会が終わる頃には、自分の意見が通っていました。

 児童会の役員を務めていたとき、夏休みの過ごし方として、午前11時まで家の外に出てはいけないという学校のルールがあったのです。それで「そのルールはおかしい」と主張したら、先生に職員室に呼び出され、「勝手にルールを変えるな。そういうことをするときは事前に教えてほしい」と言われました。「それは検閲ですよね」と言いましたが、くそ生意気な小学6年生だったでしょうね。既存のルールを変えたかったのです。友人たちからは「政治家になれ」と言われていました。

 ただ、政治家は国会の過半数を取らなければ世の中を変えられません。弁護士も考えましたが、弁護士は法廷で勝っても社会は変えられません。たった一人の人間が社会に向けて「世の中がおかしい」と物申せる職業は何か。それが小説家でした。小説家を意識しだしたのは小学6年生でした。

 〈その夢を具現化するため、3日に1冊のペースで小説を読みあさった。アガサ・クリスティに横溝正史…。ほとんどがミステリーだった〉

 執筆に取り組んだのは高校2年の夏休みです。原稿用紙550枚の作品を書いて「江戸川乱歩賞」に応募しました。高校3年の時はずっと小説を書いていましたね。社会に対する違和感を持っている、そのことを訴えるツールとして小説があるのだと思い、小説家になろうと決めました。

 チャーリー・マフィンシリーズの英国の作家、ブライアン・フリーマントルもそうですし、山崎豊子さんもそうなんですが、自分の好きな作家はみんな記者上がりだったんです。なぜ好きなのか考えたのですが、それは記者時代に培った取材力と人脈、それに分かりやすい文章だと。人に伝えるためにものを書くというのが最初からあったんですね。それで、まずは新聞記者になろうと決めたのです。

 〈同志社大学法学部で政治学を専攻し、卒業後は中部読売新聞(現・読売新聞中部支社)に入社。小説家への道を着実に歩み出しつつあった〉

 260人のうち3人だけ採用という難関でしたが、運良く拾ってもらえました。初任地は岐阜支局。周囲の人間は「サツ回り」(警察担当)が大嫌いだったのですが、私は夜回りが大好きで、警察だけでなく、地検の三席(検事)の部屋にも入り浸っていました。凶悪犯罪を捜査する強行犯係の警部にかわいがられましたが、よく言われたのは「人より姿勢を低くして取材しろ」ということです。

 例えば取材相手が玄関口で座ります。私も座ると失礼かと思ってそのまま立っていると、「こういう立ち位置では俺はしゃべらない」と言うのです。彼は「常にへりくだれ、偉そうにするな、分からないから来ているということを意思表示しろ」と言っていました。あの警部の言葉は、小説家になった今でも徹底して実践しています。(聞き手 大竹直樹)