星稜高野球部元監督・山下智茂(4)笑われた「3年で甲子園」

話の肖像画
平成10年の夏の甲子園、海星戦でベンチから指示を出す(安部光翁撮影)

 〈石川県立門前(もんぜん)高では遊撃手として石川大会ベスト8が最高。東都大学野球の名門、駒沢大学へ進学。レギュラーの壁は厚く、公式戦の出場はなかった。卒業後は社会科教諭として星稜高へ。野球部監督も任されたが、部員8人からのスタートだった〉

 当時は無名校で、野球部用のグラウンドはなく、部員はわずかに8人でした。公立校を落ちて嫌々、入学してきた生徒ばかり。何とか自分たちの学校に夢や誇りを持たせたいと思い、「3年で甲子園へ行く」と宣言しました。周りに笑われ、ばかにもされましたが、自分は大真面目でした。

 何ができるのか考え、朝5時からグラウンドで草むしりすることを始めました。学校のある金沢市は冬場、腰ぐらいまで雪が積もる。グラウンドの雪かきをするのが大仕事。仕方なく自分がスコップを手に雪かきをしていると、教え子のワルな連中が見かねて手伝ってくれました。今でこそ野球部員の仕事になっていますが、当時は生徒に助けられました。

 5年が過ぎた昭和47年、初めて甲子園出場を果たすことができました。甲子園の印象ですか。なぜ、こんなところへ来たのかと思いましたね。蒸し暑い、そして水道の水がまずい。だが、練習でグラウンドに入るや、これが甲子園かと驚きました。

 あの大きく迫ってくるスタンド、グリーンの芝生。最高の場所だと思いましたね。東京ドームやヤンキースタジアムは何階ものスタンド構造になっていて、上からだと、真下を見下ろすような形です。ところが、甲子園はどの席からも、グラウンドが見やすい。世界一の球場だと思いました。

 星稜高の監督を退任した今でも、毎年夏、甲子園に行きます。朝、暗いうちに球場へ行き、関係者にあいさつしながら、グラウンドへ降り、芝生や土のにおいをかぐのが好きですね。

 〈ノックの名人としても知られる。監督時代は自らバットを手にして、鍛えてきた〉

 最初はノックが打てなかった。努力です。何度も手の皮をむき、ボロボロにしながら上達しました。

 小学校に入ったころかな。巨人の監督をしていた水原茂さんが好きで、キャンプを見に行きました。守備練習で、選手に自らノックをしていた。格好いいなと思いました。水原さんがトイレに行ったとき、思い切って「ノックバットを持つ手はどっちがいいですか」と聞きました。すると、水原さんは「お前は、小さいのにおもしろいことを聞くな」と言いながら、「(右打者なら)左手でバットを持った方がいいな。ボールは右手で上げろよ」と教えてくれた。それが頭に残っていました。

 〈51年、剛腕として知られた2年の小松辰雄投手(後に中日)を擁し、石川県勢では初のベスト4へ進出。翌52年にも連続出場し、小松とともに星稜の名は全国に広まった〉

 小松は今でも日本一、球が速いと思っています。速いだけじゃなく、ズドンと重い。当時、スピードガンはなかったが、150キロは出ていたんじゃないかな。中学でも速かったが制球が悪く、入学時に肩を壊していた。だから投げさせないで、ずっと走らせていたんです。都市対抗野球に出場した社会人チームと練習試合をしたとき、打者はかすりもしなかった。ただ、捕球できるキャッチャーがいなくて、軍手をつけてミットをはめ、中にスポンジを入れて衝撃を和らげていましたね。(聞き手 江目智則)