原子力規制委員会前委員長・田中俊一(2)飯舘村で手探りの除染活動

話の肖像画
原子力規制委員会の委員長として会見(中央) =平成24年9月、東京都内(三尾郁恵撮影)

 〈東京電力福島第1原発事故から3週間後の平成23年4月1日、原子力の平和利用を進めてきた学者ら16人が緊急提言を発表した。事故収束のため原子力の専門家に加え産学の結集を呼びかけると同時に、冒頭に「国民に深く陳謝いたします」と記した〉

 あれは住田先生(住田健二・元原子力安全委員長代理)の思いで、田中さんやってと言われてまとめたものです。名前を連ねている16人は全員OBで、今度の事故に直接責任がある人は一人もいない。でも、何らかの形で原子力に携わってきた者として、ある種の贖罪(しょくざい)というのも変ですが、何かやらないといけないんじゃないかということで、バタバタと2日間ぐらいで同意を得られる方に名前を連ねてもらいました。でも、提言は民主党政権からは全く無視されましたね。最初に党に持っていったら相手にされず、それで記者会見して発表したのですよ。

 〈その後、国の損害賠償審査会の委員として福島の実態の周知を図りつつ、福島県飯舘(いいたて)村などで除染の可能性について実地での取り組みを始める〉

 飯舘村に行ってサーベイメーター(放射線測定器)で測定し、その値の大きさと汚染の規模を想像して、半分絶望感を抱きました。除染できるかどうか分からないが、やってみようと。行政に干渉されないように、手当たり次第メディアにも声をかけましたよ(笑)。長泥(ながどろ)行政区の鴫原良友(しぎはら・よしとも)区長の家から始め、庭の表面の土や雨どいにたまった杉の葉と泥を取り除いたりしました。多くの知見は得ましたが、これ以上は個人レベルではできず、全村避難のため飯舘村での活動は終わりました。福島県伊達市から除染アドバイザーの声がかかり、ボランティアによる除染なども手がけているうちに、原子力規制委員会の委員長の打診があったわけです。

 このまま福島での活動を続けるかどうか迷いましたが、霞が関(規制委)に行って福島の状況を伝え続けるのも大事だという思いと、相談した何人かの方からの後押しもあって引き受けました。

 〈規制委は従来の原子力安全・保安院が原発推進側の経済産業省に属していた反省から、環境省の外局として高い独立性を持たされた。一方、田中氏を初代委員長とする人事案は発表前に事前報道され、その経歴から反対論も噴出した〉

 私はよく「原子力ムラの住人」と批判されますが、本当は原子力ムラで村八分されていた者なんですよ(笑)。大学で原子力を教えている人や学会には、いつまでたっても1960年代と同じ価値観を持っている方が多い。たとえば私は、高速増殖炉は物理的に人間がコントロールするのは極めて困難な技術だからやめたほうがいいと言ってきた。ウラン資源は山ほどあるのだから、核燃料サイクル、プルトニウム利用には何の得もないと考えています。原子力の関係者が科学的に考えることができず、安全神話の中で安心していた、その結末が福島原発の事故ではないのですか。私はそう思っています。

 〈24年8月1日、衆参両院の議院運営委員会で行われた所信聴取で「日本のために身を投げ出すべきではないかと思い、就任を決意した」と語った。規制委は9月19日に発足する〉

 国会での人事面接は、ダメならダメでと、さばさばした気持ちでした。ただ、規制委員の国会承認は年明けに先送りされ、“仮免許”のスタートとなりました。(聞き手 鵜野光博)