原子力規制委員会前委員長・田中俊一(1)原発事故から4日後の「ご進講」

話の肖像画
原子力規制委員会前委員長・田中俊一氏(鵜野光博撮影)

 〈昨年9月、5年間務めた原子力規制委員会の初代委員長を退任した。その後、福島県飯舘(いいたて)村に山荘を構え、月の半分をそこで過ごしている。今年1月には同村の復興アドバイザーを委嘱された〉

 5月下旬、飯舘中学校で東大名誉教授の早野龍五先生に来てもらい、天体の授業をやりました。月までの距離を計算したり、生徒が自然現象に興味を持って、「何でこうなんだろう」と考えさせる授業です。企画や準備は全部自分でやっているから、皆さんが思うよりずっと忙しいんですよ。助手も誰もいないから。規制委員長のほうが暇でしたよ(笑)。言えば有能な職員がみんなやってくれますから。

 〈規制委発足のきっかけは、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故。平成23年3月11日のその時は、茨城県ひたちなか市の自宅で迎えた〉

 揺れましたよ。震度6だもの。原発が大丈夫かと考えるところまでいかなくて、わが家が大丈夫かという状態。本は全部ひっくり返り、水は止まるし、電気も止まって何も見えない。情報が全くなかった。そうしたら、14日朝に日本学術会議の金沢一郎会長から電話がかかってきて、天皇陛下にご進講するようにとの依頼がありました。原発事故の説明ができて、かつ事故対応で忙しい原子力委員会の委員長などの現役ではない者を希望されていて、21年12月に原子力委員長代理をやめていた私に、ということだったようです。しかし、14日に電気は通ったものの、資料をそろえようもない。翌日の15日に来いといわれ、電車も止まっていて、もう大変でした。

 〈資料を手書きで作って、夜中に車で上京し、15日午前のご進講に臨んだ〉

 情報が少ない中で、ただ一つ申し上げたのは、「この事故は(1979年の)スリーマイル島原発よりはるかに大変な事故です。まだ今後どうなるか分かりません」ということでした。津波でポンプが流され、原子炉を冷却できない状態で、次の日には水素爆発しているわけだから、先々大変だとは予見できました。両陛下からはいろいろな質問が出て、50分の予定が1時間20分ぐらいになりました。次の日に陛下がビデオメッセージを出され、ただならぬ事態だから、全国民挙げて対処するようにというお言葉になっていました。ご進講でのやりとりは、そこに象徴されていると思っています。

 〈陛下は16日のビデオメッセージで「現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ、関係者の尽力により事態のさらなる悪化が回避されることを切に願っています」と言及された〉

 陛下には間違いのないメッセージを出していただきたいという気持ちはありましたが、私だって半分想像ですから。原子炉の中で何が起こっているか、詳しいことは全然分からない。ただ、ただならぬことが起きていることだけは分かっていました。(聞き手 鵜野光博)

【プロフィル】田中俊一

 たなか・しゅんいち 昭和20年、福島市生まれ。東北大学工学部原子核工学科を卒業し、42年、日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)入所。平成16年、同研究所副理事長。高エネルギー加速器研究機構とともに、最先端研究のためのJ-PARC(大強度陽子加速器施設、茨城県)を整備した。19年、原子力委員会委員。22年、高度情報科学技術研究機構会長。24年、原子力規制委員会委員長。29年9月に退任し、30年1月から福島県飯舘村復興アドバイザーを務める。