映画監督 ヤン・ヨンヒ(3) 朝鮮学校教育に深まる苦悩

話の肖像画
ヤン・ヨンヒさん(斎藤良雄撮影)

 〈朝鮮学校で過ごした学生生活。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)幹部の娘として優等生で通す一方、校外では映画・演劇鑑賞に夢中になった〉

 森友学園問題で、教育勅語を暗唱する園児の映像が取り上げられましたが、懐かしさを感じました。「祖国のため」というような内容の歌を私たちも子供の頃からたたき込まれて。とはいえ、子供たちは学校の狙い通りに染まるわけでもなく、私みたいになったりするんですけどね。

 帰国事業で兄たちが北朝鮮に渡った後、長兄の友人の一人が「コノ(長兄)に音楽や映画を教わったから、ヨンヒを連れ出すのは恩返しや」と、演劇や映画に連れて行ってくれました。小学校高学年からは1人で映画館に足を運ぶようになり、中学生の頃にはロシア演劇や新劇に大きく影響を受けました。

 つまり、学校の中と外で、全く正反対のことを学んでいたわけです。授業で教わるのは究極の全体主義。あなたの人生を国にささげなさい。一方、演劇や映画の中で憧れたのは個人主義。誰にも指図されたくない。中学生くらいまでは意外と、自分の中でそれらが上手に共存していたんです。

 〈朝鮮学校教育、総連組織への反発は次第に大きくなっていく。そこに、高校卒業後の進路選択の問題が立ちはだかる〉

 高校生の頃、よく1人で京阪電車に乗っては京大前の喫茶店に入り、客の学生たちを眺めていました。私と同じようにドリフターズを見て、名画座を見て、日本で生まれ育っているのに、この人たちは私と何が違うんだろう。「祖国のために生きろ」とか「総連の人間になれ」とか言われる同じ世代の人間がいるのを知らないんだろうな、と。

 不満を口に出してはいけない雰囲気があったので、学校では波風の立たない対応で逃げていました。テストではよく祖国に対する決意表明みたいなものを書かされますが、「総連の活動家になります」とは書かずに、「同胞社会に役に立つ人間になる」などとかわしていました。

 しかし、進路指導では高校を出てそのまま総連組織に入り、活動家の親の後を継げ、と求められた。私は演劇をやることしか頭になくて、朝鮮大学校に入学することで当面の組織入りから逃げようと試みました。なりふり構わず、口八丁手八丁で「専門知識を持った総連の活動家になりたいです」などと言って。もちろん、一般の日本の大学に行きたいなどと言い出せる状況にはありませんでした。

 少しでも流されて、とりあえず先生の言うことに従ったら、すぐさま組織のベルトコンベヤーに乗せられてしまう怖さを実感した。あの時の極端な進路指導がなかったら、これだけ組織に反発する作品を制作する、今の自分はなかったかもしれません。

 〈朝鮮大学校での学生生活を経て、大阪の朝鮮高校の教師に就任。同僚との結婚や交通事故などに伴い、2年余りで仕事から離れた〉

 大学卒業にあたり、教職を拒否すれば別の就職が決まっている友人に迷惑がかかるなどと脅され、やむなく朝鮮高校に就職しました。さらに「魔が差して」同僚と結婚し、寿退社のような形になりましたが、夫とは全く合わず、すぐに離婚。もう、やりたいことしかやらないぞ。その思いで、劇団での演劇活動を中心にした生活をスタートさせました。(聞き手 時吉達也)