【話の肖像画】映画監督ヤン・ヨンヒ(2) 北朝鮮に3人の兄を奪われ 「地上の楽園」と宣伝された祖国 - 産経ニュース

【話の肖像画】映画監督ヤン・ヨンヒ(2) 北朝鮮に3人の兄を奪われ 「地上の楽園」と宣伝された祖国

ヤン・ヨンヒさん(斎藤良雄撮影)
 〈昭和39年、在日コリアンと日本人が共に暮らす町、大阪・鶴橋で生まれた。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)幹部の父や年の離れた3人の兄の愛情を受けて育った〉
 待望の女の子としてかわいがられ、いつも私を溺愛する父の膝の上に座っていました。晩酌して機嫌が良くなると、毎日のように「母ちゃんと結婚してよかった」「アイラブユー」と口にして、「欧米か」と突っ込みたくなるような父親。当時の在日社会ではかなり珍しい男だったと思います。母は「日本人の前に出ても恥ずかしくない格好をしなさい」が口癖。礼儀にもうるさかった。
 兄たちは8~12歳も年が離れていたが、お馬さんになってくれたり、ホウキでちゃんばらごっこをしたり。私はすごく体が弱くて、病院に連れて行ってくれるのも兄たちでした。
 〈一家の生活は46年秋以降、一変する。学生だった兄3人の北朝鮮移住が決まったのだ。34年から四半世紀にわたって行われた「帰国事業」。北朝鮮国内の厳しい経済環境は伏せられたまま、「地上の楽園」と宣伝された祖国に9万人以上が渡った〉
 当時、生活の中で日本人からの差別を感じることは少なかったが、社会の仕組みとしては職業選択の自由が制限されていた。制限は緩和されたけれど不寛容な空気が広がっている、現代とは逆ですね。考えられる進路は総連組織で働くか、焼き肉屋を開くか、または出自を隠して歌手になるか。大企業にも入れず、教師にもなれなかった。
 高校1年の次兄が「北に行って建築家になる」と言い、中学3年の三兄もそれに続きました。帰国事業は開始からしばらくたち、実際には北朝鮮が楽園などではないとすでに判明しつつあった。しかし、父が総連で帰国事業を推進する立場だったこともあり、その事実を認めようとしなかったんです。
 〈1人日本に残るはずだった長兄も翌47年、組織から指名を受ける形で弟たちの後を追った〉
 兄たちを見送った新潟の港は、今も記憶に残っています。「帰国事業」の意味はよく分からなかったが、周囲の騒ぎを見て「よっぽど遠くに行くんだな」「帰ってこないんだな」と悟りました。皆、悲しそうで涙を目に浮かべているのに、行かないでという人は誰一人いない。代わりに「万歳(マンセー)、万歳」と叫んでいました。
 その後、私は40度の高熱が1週間続きました。母は診察した漢方医から「眉間に、子供にはできないはずのシワがある。大人の事情があるにせよ、この子にとっては兄を奪われ、引き離された状況。大変な傷を負っている」と説明されたそうです。
 母もしばらくの間、放心状態でした。ある日、手紙と写真を手に泣いていた。驚いて写真をのぞくと知らない人が写っていました。「分からんか? コンミンや」。一番下の兄が、見る影もないほどやせていたんです。「アボジ(父)に言うたらアカンで」。母はそう声を潜め、写真を破り捨てました。
 〈兄たちとの再会には、学生代表団の一員として訪朝した高校2年の時まで、約10年を要した〉
 滞在した1週間の間、ずっと泣き続けました。兄たちに抱きついて、言葉も出てこなくて。こんなに恋しかったんだ。自分でもびっくりしました。気持ちにふたをしてしまっていたのかもしれません。(聞き手 時吉達也)