【話の肖像画】政治評論家・屋山太郎(3) 権力組織を次々実名で批判 - 産経ニュース

【話の肖像画】政治評論家・屋山太郎(3) 権力組織を次々実名で批判

後に政治評論家に転身。行財政改革の旗振り役も務めた
 〈昭和43年に帰国し、政治部に配属。自民党で後に首相となる福田赳夫氏率いる福田派も担当する。派閥全盛時代だった〉
 駆け出しのころは強い派閥記者になりたいとも思ったが、ローマ在任中に考えが変わった。イタリアの政治評論誌に載っているような、政策評論やルポルタージュを書く記者になろうと考えた。思想を磨き、信念に基づいて政策や政局を裁断して記事を書こうと思うようになった。
 〈この頃から「諸君!」などの月刊誌への寄稿が増えた。強大な組織力を持ち、戦闘的な労組だった国鉄労働組合(国労)をやり玉に挙げ、国鉄改革も訴える〉
 きっかけは当時、国労のスト権スト(スト権を獲得するためのストライキ)を指揮していた国労書記長の富塚三夫氏への取材だ。当時、国鉄職員はストを禁じられていた。どんな理念を持っているのかと思い、インタビューして衝撃を受けた。富塚氏が「国鉄が機能しなければ経済活動が滞って国が困る。そうなれば革命がしやすくなる」と言ったからだ。それまで僕は左翼も右翼も皆、愛国者に変わりはないと考えていた。しかし彼らは活動が最優先で、国民の生活なんて後回しだった。こんなことを許す組織は徹底的に改革しなければと考えた。
 〈寄稿は実名で手加減なし〉
 会社からはペンネームを使ってはどうかと言われたが、人を攻撃するのに実名を明かさないのはダンディズムに反する。イヤだと拒否した。
 中立なはずの教育現場で、社会主義イデオロギーに偏した指導をする日教組(日本教職員組合)に対しても「解体論」を展開した。総評(日本労働組合総評議会)も批判したし、西山事件もたたいた。
 そのうち僕の批評が載った雑誌が発売されると、時事通信の政治部に抗議の電話がかかってくるようになった。愉快な同僚がいて「はい、屋山の事務所でございます」なんて電話を取っていたけど、迷惑をかけたかもしれないね。
 〈批判の刃は金権政治全盛期の自民党実力者たちにも振り下ろされた。昭和40年代後半から激化する田中角栄元首相と福田赳夫元首相の「角福戦争」で、永田町には札束が飛び交っていた〉
 何をするにもカネ、カネ。重宗雄三という自民党出身の参院議長がいた。いろんな議員が封筒を持って力添えを頼みに来る実力者の一人だった。黙って横で見ていたら、協力を断るときでも一回、封筒を受け取り、机の引き出しに収める。そしてすぐに引き出しから封筒を返して断るという具合だった。不思議に思って、ある時「議長、なぜ封筒を一回引き出しに入れてから断るんですか」と聞いたんだよ。そしたらこう答えた。「引き出しの中に秤(はかり)があるんだ」とね。つまり、カネを重さで量って協力の是非を決めるほどカネ浸しになっていたんだね。
 田中角栄(元首相)の早坂茂三秘書から話があると言われて会いにいったら、「飲むのに使ってくれ」と厚い封筒をテーブルに置かれたことがあった。かっとなって「持ってくところを間違っているだろ!」と言って、指先で向こうにはじき返そうとしたら指が痛かった。いくら札を入れればあんな重さになるのか。そんな風潮が許せなくて徹底的に批判し、選挙制度そのものを変えなければ改まらないと確信するようになった。(聞き手 佐々木美恵)