政治評論家・屋山太郎(1) 父の教えで「喧嘩太郎」に

話の肖像画
屋山太郎さん(酒巻俊介撮影)

 〈86歳の今も執筆依頼は絶えない。昨年には国家戦略を研究するシンクタンク、日本戦略研究フォーラムの会長に就任。自衛隊の元幹部ら有志とともに、中国の対外進出に警鐘を鳴らし、防衛政策を論じた「習近平の『三戦』を暴く!!」の監修も行った〉

 自衛隊といえば、時事通信の記者時代に防衛庁(当時)を担当していたことがある。佐藤(栄作)政権のころだ。昭和47年に西山事件(毎日新聞記者が沖縄返還に伴う日米密約文書を報じ、外務省職員が守秘義務違反に問われた)が起きた。それからは「西山、けしからん」と安全保障政策よりももっぱら事件のことばかり書いていた。しまいに記者クラブで背中合わせの席にいた毎日の記者が「もう勘弁してください」と陳情してきたが、「知るか。そっちの会社が潰れるまで書く」と手を緩めなかった。

 〈西山事件は入手方法や文書の渡し先など道理に合わないことが多いと考えたためだった。戦うとなったら徹底的に戦う。ルーツは父の教えにあった〉

 明治33年生まれで生粋の薩摩隼人のおやじから「道理が通らないと確信したら黙って殴れ」と言われて育った。戦時中は疎開していたのだけど、疎開っ子いじめをしてくる者がいれば徹底的に殴り倒した。鹿児島一中ではヨソ者という理由で同じ満点のところを地元の生徒は100点、僕は98点だった。腹が立って石をぶん投げたらバカーンとすごい音がして黒板にめり込んだよ。誰だと聞かれたから「屋山です」と手を挙げた。翌朝、掲示板に「左の者、放校に処す」と張り出されていた。除籍だよ。そんな調子で都合4回、中学を代わったが、おやじは怒らない。理由も聞かない。満足そうな顔をして次はどこに転校するかと相談してくれたものだった。

 〈記者時代のあだ名は「喧嘩(けんか)太郎」。最初から記者志望ではなく、理由は別にあった〉

 外国に行きたかった。いろんな体験をして小説家になりたかったんだ。商売の才能はないと分かっていた。おやじから「外国に行くなら確率が高いのはマスコミだろ」とアドバイスを受けた。海外特派員になれる確率が一番高いのは時事通信だった。入ってみたものの、同期12人のうち6人が東大出で、僕みたいに大学の5年間、剣道と麻雀(マージャン)に明け暮れた人間はいない。まずいと悟ったね。学力の落ちる野郎がどうすべきか。上司にとって一番使いやすい人間になろうと考えた。地方行政ニュースを扱う内政部に配属されたから、47人の知事、約550人いた市長の名前、取材先の役所の担当課の電話番号をすべて丸暗記した。デスクはやりやすいだろ、僕に聞けば即答するんだから。社長から『稗田阿礼(ひえだのあれ)』(古事記の編集者の一人で驚異的な記憶力があったとされる)というのはお前か」とからかわれた。

 〈頭角を現したとはいえ、若手がすぐに海外特派員になれるほど甘くはない。先輩との出会いが次の飛躍を導く〉(聞き手 佐々木美恵)

【プロフィル】屋山太郎

 ややま・たろう 昭和7年6月4日、福岡県生まれ。東北大文学部卒業後、34年、時事通信社に入社。政治部記者、ローマ特派員、首相官邸キャップ、ジュネーブ特派員、編集委員兼解説委員などを歴任し、62年に退社。政治評論家として歯にきぬ着せぬ鋭い論陣を展開。一方で56年、第2臨時行革調査会(土光臨調)に参画し、国鉄の分割・民営化を進めた。行政改革推進審議会専門委員、選挙制度審議会委員、臨時教育審議会専門委員も務めるなど行財政改革や選挙制度改革を推進した。「正論」メンバーで、平成13年に第17回正論大賞を受賞した。著書多数。