元サッカー日本代表・釜本邦茂(5)W杯の舞台には縁がなかった

話の肖像画
元サッカー日本代表・釜本邦茂氏(薩摩嘉克撮影)

 〈1968年のメキシコ五輪で得点王に輝くと、世界的ストライカーとして注目され、欧州の強豪クラブチームからオファーが相次いだ〉

 (五輪のメダルを手にし)あとは(70年の)ワールドカップ(W杯)メキシコ大会だな、と思っていました。メキシコ大会からはアマチュア選手も出場できるようになったこともあった。

 誤解のないように言っておくと、自分たちの世代はW杯よりも五輪の方が重要だった。サッカーを始めたのも、五輪に出たいという気持ちからだったし、W杯に出たら、アマチュア資格を剥奪されるというので、(66年の)イングランドW杯の予選には出場しなかった。五輪はアマの祭典、W杯はプロの祭典だった。

 〈新たな目標に向かおうとした直後、病魔に襲われた〉

 W杯予選に向けた69年7月の代表合宿中、背中が痛くなり、病院へ行きました。「胃が荒れている」ということで、胃薬を飲んで練習を続けたけど、顔に黄疸(おうだん)ができ、目が黄色になった。「ウイルス性の急性肝炎」と診断され、入院しました。

 10月に始まった韓国、オーストラリアとのW杯予選には出場できず、日本が負けるのをテレビで見ていた。自分がいたら? (本大会に)行けたかも分からないね。それは残念ですよ。でも、そのころは調子に乗っていたから。神様が「お前、休んどけ」ということだったかもしれませんね。

 〈W杯は74年西ドイツ大会、78年アルゼンチン大会も予選で敗退。結局、W杯には縁がないまま、84(昭和59)年に引退した〉

 東京五輪を目指したチームのメンバーが1人去り、2人去りとなっていた。「あ」といえば「うん」まで分かっていた人たちが、いなくなる。次の世代が来るとギャップが出てくるでしょ。一度、W杯の舞台に立ちたかったけど。残念やね。

 〈日本代表での75ゴールという記録は引退から30年以上たった今も破られていない。日本ではストライカーが育たないといわれる〉

 サッカーはチームでやるスポーツだけど、突き詰めれば個の勝負ですよ。相手の選手をいかにしてかわすか。練習しかない。自分の場合、教わったというより、どうすれば正確にシュートが飛ぶかを研究したものです。

 Jリーグができて、今の選手は恵まれている。僕ら、ヤンマーでは工場勤めだったから、午後3時45分まで仕事をやって、それから練習ですよ。今の選手はずっとサッカーやっていて、それでお金がもらえる。年収300万円だったのが、Jリーグが発足して、3千万円、4千万円になった。ならもっと、やらなきゃ。

 Jリーグで気になることは、FWなのに点を取らない選手がいること。監督に「なぜ、あの選手を使っているんだ」と聞くと、「いや、彼は前線で一生懸命動いて守備をしています」とか言う。ばか言え、と言うんですよ。FWの選手は点を取ってこそ。点さえ取ってくれれば、あとは何をしていてもいいんですよ。

 64年の東京五輪では、多くのメンバーが大学生だった。若いストライカーの出現を期待したいですね。(聞き手 江目智則)=次回はアーティストの野老朝雄さん