元サッカー日本代表・釜本邦茂(3)東京五輪は「何もできなかった」

話の肖像画
東京五輪の4年後のメキシコ五輪で大活躍=昭和43年

 〈日本蹴球協会(日本サッカー協会)は昭和39年東京五輪に向けた強化のため、35年からソ連(当時)や欧州への遠征を毎年、実施していた。釜本は五輪前年の夏、初めて遠征メンバーに選ばれた〉

 遠征は船旅でした。横浜港から丸2日以上かけてソ連のナホトカに入り、汽車で18時間かけてハバロフスクへ行き、現地のチームと対戦していきました。1カ月ぐらいかけて。まさに武者修行ですよ。ソ連代表チームとも戦いましたが、そのほかの相手はよく分からない地元のチーム。軍隊だったり、学生だったり。それなのにこんなに負けるか、というぐらい負けましたね。こちらは代表チームなのに、ですよ。国際試合の経験がなかったからね。鍛えられました。

 〈東京五輪には最年少の20歳でメンバー入りを果たした。五輪で自身は4試合すべてに出場したが、わずか1ゴールに終わった〉

 東京五輪では、悔しい思いしか残っていない。「何もできなかった」という感じかな。

 正式メンバー発表は開幕(10月)直前の9月だったと思います。夏の欧州遠征メンバーに入ったので、選ばれるだろうなとは思っていましたが、長沼健監督(当時)が読み上げるメンバーになかなか呼ばれない。「駄目かも」と覚悟しました。結局、名前が呼ばれたのは最後でした。

 当時、自分は控えですよ。FWは川淵(三郎)さん(元日本協会会長)もいたし、杉山隆一さん、渡辺正さんもいた。渡辺さんが遠征でけがをして、僕が先発で出場することになりました。

 東京五輪の初戦は、雨の中でのアルゼンチン戦だった。僕がセンタリングでパスを出して、川淵さんが頭で同点ゴールを決めた。その後、小城(得達(ありたつ))さんが決勝ゴールを決め、ベスト8入りを果たしました。

 チームとしては良かったですよ。でも自分が「何をしたか」ですよね。チームに貢献したか、というと何もしていない。世界のレベルから言うと、三流以下の選手だと感じましたね。

 ゴールは最後の最後、蹴ったのが入った。大阪・長居競技場で行われた順位決定戦で、ユーゴスラビアと対戦した。日本は1-6で負けたんだけど、相手のチームにイビチャ・オシム(元日本代表監督)がいました。後に会ったとき、「釜本さん、あのとき日本チームにいたでしょ。私は2ゴール決めました」と言ってました。縁というは不思議なものですよね。

 五輪期間中は東京・代々木にあった選手村に泊まりました。八幡製鉄(当時)から来ている男子バレーボールの選手と話したり、人気のあった「東洋の魔女」の女子バレー選手を見かけたことはあったけど、ほかの競技の選手との交流というほどのものはなかったなあ。

 五輪から帰ってきて、早稲田大のチームメートやマネジャーらと一緒に食事に行き、「オレは駄目だなあ」というと、「いや、釜本さん、4年後は大丈夫ですよ。メキシコ五輪で頑張りましょう」と励まされたことを覚えています。

 このとき「次はワールドカップ(W杯)で頑張りましょう」という声は出なかったな。当時はサッカーでも五輪至上主義でしたからね。(聞き手 江目智則)