ノンフィクション作家・沖藤典子(4) 体験を20日で書き上げた

話の肖像画
スウェーデンにはその後も視察で赴いた =平成18年(本人提供)

 〈15年勤めた会社を辞め、2人の子供と夫の赴任先の札幌に行くしかなかった。昭和51年のことだった。直後に書き上げたのが実質的なデビュー作「女が職場を去る日」である〉

 共著でビジネス書のようなものを書いたことがあったくらいでした。でも会社を辞めた直後、胸の中にたぎるものがあって、20日間で原稿用紙400枚を書きました。特に発表するあてはありません。1年間は仏壇にあげていました。

 札幌で同人誌に参加するようになり、仏壇から下ろして同人誌に掲載しました。同人誌を、以前働いていた日本リサーチセンターの上司に送ったところ、上司と新潮社の編集者が学友で、新潮社から本にする話が舞い込んできました。さらに80枚書き足して54年、出版されました。

 〈当事者が赤裸々に仕事と家庭を両立させる苦悩、家庭内の波乱を訴えた「問題作」は、世間に衝撃を与え、倍賞千恵子さん主演でテレビドラマにもなった〉

 突然、生活が変わりました。嵐に巻き込まれたみたい。マスコミに追いかけられ、講演に呼ばれるようになりました。書店に自分の本が並んでいるから、前を通り過ぎるのも恥ずかしかった。

 全国からお手紙をいただきました。「辞めるなんて」という非難の手紙もありましたし、励ましもいただきました。お手紙は箱にしまっておいたのですが、引っ越しなどで箱がなくなってしまい、返事を書けなかったものがあるのが今も胸が痛いです。

 同人誌に発表したときのタイトルは「重たき日々」でした。「女が職場を去る日」は、編集者がつけてくれたタイトルです。嫌でしたね、敗北めいていませんか。皆は「いいタイトルだ」とほめてくれるんですけどね。今は慣れてしまいました。この1作で一生生きてはいけない、次を書かなくてはと決意しました。

 〈次作のテーマは介護福祉。父の介護で「これでは安心して年がとれない」と痛感していた〉

 当時の介護は「措置」制度が主で、普通の暮らしをしている人は介護に困っていました。日本は家族がしっかり介護をするのが一般的でしたから、国もその文化に頼っていたのでしょうね。昔は福祉のお世話になるのを嫌がる人も多かった。

 特別養護老人ホームで働かせてもらい、どのようなサービスが受けられるのか、入所者はどのように思っているのか、知ることができました。そこでも「施設に入れるなんて」と親を入所させるのを嫌がる家族がいました。たいてい息子です。自分は介護するわけではない。息子の妻がしている。その妻が倒れてしまったというのに。

 〈56年、福祉国家として知られるスウェーデンなどの施設を見学に行く〉

 介護施設は個室で明るかった。日本でも高齢者を取り巻く環境が変わってほしいと思い、帰国後、「銀の園 ちちははの群像」を書きました。介護問題の作家として、講演や原稿の依頼が舞い込むようになりました。

 そうしたら夫が東京に転勤になったのです。私が悩みに悩んで仕事を辞めて札幌に来て、本を書いて忙しくなったら、また東京です。札幌に来て6年が過ぎていました。57年、再び一家で神奈川県の家に戻ったのです。(聞き手 小川記代子)