ノンフィクション作家・沖藤典子(3) 仕事、育児、介護が重なって

話の肖像画
働いているころの沖藤典子さん(本人提供)

 〈乳飲み子を抱え、北海道で仕事と家庭を両立させていこうと思っていた矢先、夫が東京で就職を決めた。昭和36年、泣く泣く上京する〉

 苦労した親に孝行したかったのに、北海道で一緒に暮らしたかったのに…。でも夫の改姓に負い目を感じており、従うことにしました。上京すると決めたら、「一生懸命共働きして、親を東京に呼んで一緒に暮らそう」に目標を変えました。生まれたばかりの長女を両親に預け、夫婦2人で上京しました。

 勤めたのは日本リサーチセンターというシンクタンクです。社会心理学者の南博先生たちがつくった市場調査の会社で、創業時に新卒で入りました。「子供」のいる「女性」と、当時はハンディだったことばかりでしたが、正社員として「バイタリティーがありそう」と入社が決まったと聞きました。

 大学院出の秀才ばかりのなか、必死で働きながら公団住宅の抽選に挑戦し続け、2年後に埼玉県の団地に当選。38年、ついに長女を引き取りました。

 〈収入が多かったため保育園には入れず、保育ママさんに助けられた〉

 近所の方が引き受けてくれました。朝、保育ママさんの家に子供を連れていって出勤、帰りは引き取るという毎日です。保育園にはずっと入れず、幼稚園に行くことになりましたので、朝は幼稚園に送っていって、終わってから私が帰るまでは保育ママさんの家にいる、という方法をとりました。

 〈このころ母が亡くなる。東京に呼び寄せ孝行したいという思いは果たせなかった〉

 次女も生まれ、会社では室長という責任のある仕事を任せられるようになり、綱渡りの生活でした。父と話し合った結果、45年、父が札幌の家を売って上京してくれることになりました。父にとっては思い切った決断だったでしょう。長年住み慣れた北海道を離れ、新たに買った神奈川県の家で私たちと同居を始めました。すぐに近所になじみ、お友達もできて、孫娘の送り迎えをしてくれました。このころが家族にとっていい時間でした。

 〈穏やかな日々は長くは続かなかった。夫が札幌に転勤になる〉

 父と同居して5年ほどたっていたでしょうか。当時は、特に夫の会社では転勤に家族がついていくのが当たり前でした。夫も当然、来てほしいと思っていました。でも、私には仕事があります。父も思いきって札幌を出てきたところです。何度も話し、夫は単身赴任することになりました。「何で奥さんは来ないの」など、結婚時に私の姓にしたことも含め、会社の人からはずっと言われていたようです。

 〈またも試練が訪れた。子育てを手伝ってくれていた父の発病だ〉

 最初は「首が痛い」と言うので、寝違えだと思っていました。後に進行がんだと分かりましたが、当時は本人に告知しないのが一般的で、父は病院不信になるし、言えないのがつらかった。仕事、育児、介護を1人でこなさなければなりませんでした。

 夜中に倒れた父に付き添って病院に行くため子供2人を家に残さねばならなかったり、病院の階段を父を背負って昇降したり。夫から札幌に来てほしいとの催促も続きました。50年に父が亡くなり、改姓の負い目もあり、翌年、家族で札幌に行くことにしました。15年勤めた会社を辞めたのです。(聞き手 小川記代子)