【話の肖像画】スポーツキャスター・女優 大林素子(2)バレーしか生きる手段がなかった - 産経ニュース

【話の肖像画】スポーツキャスター・女優 大林素子(2)バレーしか生きる手段がなかった

バレーボール全日本代表の頃=昭和63年
 小さいころから、背が高いことがずっとコンプレックスでした。周りから、からかわれ、いじめられ、自殺を考えたことは何回もあります。誰も信じることができず、自分を評価できない…。もしも私がフツーの身長だったら、夢だった「アイドル歌手」を目指したでしょうね。劇団四季のミュージカルや宝塚歌劇が大好きで、なりたかったのは「ベルサイユのばら」のマリー・アントワネットのような娘役。身長が高すぎて、あきらめざるを得ませんでした。
 アニメの「アタックNo.1」を見てバレーボールを始めたのも、ほかに「生きる手段」がなかったから。ホントに生きるか、死ぬか、のギリギリの状況だったんです。自分を守るには、バレーに活路を見いだすしかないんだ、って。「ピンチをチャンスに変えてきた」とすれば、それは他の人よりもチャンスが少なかったから、だと思います。
 〈中学でバレー部に入部、自宅近くにあった女子バレーの名門チーム・日立の山田重雄監督に手紙を出したのがきっかけで練習に参加する。八王子実践高校在学中に初めて全日本に選出。卒業後の昭和61年、日立入り。メキメキと頭角を現し、日本のエースとして活躍。3度五輪に出場したが、目標だった金メダルはかなわなかった〉
 特に全日本に選ばれてからは、基本的に24時間、バレーのことしか考えない日々を送っていました。寝ているときさえ「バレーの夢を見ろ」と言われていたくらい。時代もあったと思いますが、つらい、しんどいは当たり前。試合に勝っても内容が悪ければ、帰ってまた練習…。楽しむというレベルじゃないんです。それに耐えられなければ勝てないし、できない人はその場に立てない。
 結局、私は金メダルに届かなかったから、死ぬほどこだわった「勝負」には負けたのかもしれません。だけど、人間としては負けていない。そう思えるほど、誰よりも苦しんだし、がんばって練習した。それが全部、身になっているんです。
 〈現役時代、唯一の息抜きが、大好きなミュージカルや宝塚の舞台を見に行くことだった〉
 休みなんて当時は3カ月に1度くらい、それも半日だけとかね。しかも、前から分かっていると選手は遊びに行こうとするでしょ。休みは選手に体を休めさせるのが本来の目的ですからね。だから前日の夜にやっと「明日は休みです」と発表されるんです。私はその瞬間からすぐに友だちに電話して、舞台のチケットをとってもらう。お芝居を見ている3時間だけは「夢の世界」に入ってゆける、バレーを忘れることができたんですよ。
 今は時代が変わりました。トップレベルのアスリートでも「自分のために楽しんでやってます」と堂々と言ったりしますし、休みは気分転換を行う時間なんだ、と考える選手も多い。スポーツとの関わり方、子供たちとの関わり方、基本的な価値観も変わってきました。学校の運動会では、あえて順位をつけないとか、ね。
 「2位じゃダメなんですか?」と言った政治家がいたり、「ナンバーワンにならなくてもいいんだよ」という歌があったりしました。でも、私にとっては、ありえないことなんです。そこははっきりしているし、ずっとブレなかった。やはり時代なんでしょうか。(聞き手 喜多由浩)