作家・古井由吉(3)母は病室で受賞を見ていた

話の肖像画

 〈東大大学院を修了し、昭和37年に金沢大に助手として赴任。ドイツ語を教えるようになった〉

 赴任した翌年には「三八(さんぱち)豪雪」とも呼ばれる記録的な豪雪があって、屋根の上で丸1日かけて雪を下ろす日々が続きました。のどかな城下町で時間はたっぷりあった。でも、そもそもモラトリアム、モラトリアム…でなった大学教員なので「学者になる」という意志は薄かったんです。学者は頭の中に知識をしまっておいて、いつでも出せるようにしているもの。僕は本を読んで感銘を受けるんだけれど、すぐに忘れるからそれができない。この小さな違いが後々大きな違いになると感じていました。

 〈40年に立教大に転任し、東京都世田谷区のマンションに引っ越した。ドイツの作家、ヘルマン・ブロッホの長編「誘惑者」などの翻訳を手がけたことが転機となり、本格的に創作を開始。大学教員を辞め、専業作家となった〉

 ブロッホの小説には原書で半ページ近くも続く長い一文もある。文体も複雑です。一晩かけて1ページも訳せないこともあってね。ただ難解な長い文章を訳すうち、自分一人を超えた歴史や古代に触れる感覚があった。源氏物語なんかも、どこで切れるか分からないような長い文章でしょ。思えば、卒論を書いたカフカもそういう歴史感覚の中で、日常の不可思議を描いていた。それで「自分のうちに潜む声音を表に出したい」という欲求が出てきたんです。だから翻訳を終えたらおのずと小説を書けたところがある。

 すでに商業誌から小説の依頼もあったし、大学紛争にも嫌気がさして大学を辞めたんです。当時の物価からみれば原稿料もそんなに安くはなかった。とはいえ単行本(の自著)は1冊もないし商業誌に載ったのも2作だけ。妻と幼い娘が2人いる。そんな32歳の自営業なんて、いい度胸ですよ。大学を辞めてから娘を連れて通った団地の公園で、ふっと顔を上げるとたくさんの窓が自分を見下ろしている。「どの家庭も定職を持ち世間とつながっているんだな」と考えると何とも言えない心地がしました。

 そのうちに机に向かいきりの日々が始まります。ある女人像が浮かび、その姿を翻訳で鍛えた粘りのある文章で描こうとした。でも文章はぎこちない。「いくらでも直します」と言って文芸誌の編集者に渡したんだけれど、「いや、いいですよ」って…。

 〈そうして文芸誌「文芸」に発表されたのが、神経を病んだ女子大学生と、それに寄り添う男子大学生の交流を描く「杳子(ようこ)」。他者を切に求めながらもその手ざわりを感じとれない現代人の孤独の痛みが迫る一編は46年、第64回芥川賞を受けた〉

 結局、他人との関係や過去とのつながりが、その人の実在感を形づくる。個人がただの個人になっていくと、確たる実在感はどんどん失われていくのではないか-。そんな思いもあったのかもしれない。

 芥川賞を受けて「作家としてしばらくやっていける」とは思ったけれど、母(鈴さん)が末期がんで入院していたから舞い上がるわけにもいかなかった。母は消灯時間を過ぎた病室で、光が漏れないようにテレビに布のようなものをかぶせて僕の受賞のニュースを見ていたそうです。その1カ月くらい後に母は亡くなった。僕の家系はほとんど実務系だったけれど、母は必ずしもそうではなかった。顔も僕に似ていた。母の資質を一番受け継いだのは僕かもしれない。(聞き手 海老沢類)