作家・古井由吉(2)戦争に負けた国の文学をやろう

話の肖像画
作家の古井由吉さん(早坂洋祐撮影)

 〈東京都荏原(えばら)区平塚(現在の品川区旗の台)で昭和12年、3男1女の4人きょうだいの末っ子として生まれた。米軍による激しい本土空襲を逃げ回り、7歳のときに終戦を迎えた〉

 品川、といっても20年当時は荏原区といわれた昭和初期の新興住宅地。まだまだ田園でしたね。父親は勤務先の航空機関係の会社に詰めていることが多く、兄2人はすでに母の郷里に疎開していた。だから、5月24日未明の空襲で実家を焼かれたときに家にいたのは母と姉、僕の3人でした。3月10日に(8万人を超える死者を出した)下町大空襲があったんだけれど、「自分たちのところまで焼きはしないだろう」なんて大人も高をくくっていた。

 ところが、長く続いていた雨空が晴れた夜中に敵機が大挙してきたんです。閃光(せんこう)が走り、ズザズズズズ!って空気を裂く爆弾の落下音や爆音がする。すべての爆弾が自分の真上から落ちてくるように感じた。1時間以上、防空壕(ごう)の中にいたんじゃないかな。表に出ると一面が煙です。家族3人で坂道を走って道幅の広い現在の中原街道へ逃げました。

 その後、岐阜の大垣にある父の実家へ行ったけれどそこも空襲で焼け出され、今度は母親の郷里である美濃の山奥に行った。そこで兄2人とも合流し、終戦を迎えました。「空襲はもうないんだ」と分かると急に衰弱しちゃってね。周りの大人からは「年寄りみたいな子供だ」と言われました。

 僕は末っ子で、自分からはものを言わず、いつも兄たちの話を聞く側だった。戦争が本土に迫る中で大人たちがする深刻な話もよく黙って聞いていた。後に小説の中で、自己問答のようにして話を展開させていく性質はそのころにできたのかもしれない。

 〈終戦後、東京へ戻り、高校受験期には腹膜炎で約40日間の入院生活を強いられた。日比谷高校に進むと、内外の小説を乱読するようになった〉

 盲腸をこじらせて命も危うかったんですね。長い入院生活をきっかけに、小説を読むようになりました。日比谷高校に通っていた当時は出版ブームがあってね。東京・京橋の丸善でも1フロアを使ってゾッキ本(極めて安い価格で売られる新品本)を売っていた。地下鉄の定期が使えたから、学校帰りに丸善に行く。嘉村礒多(かむら・いそた)とか徳田秋声とか、高校生に分かるわけないんだけど懸命に読んでいましたね。自分を超えるものに食らいつきたかったんでしょう。

 本は少ないお金で広い世界へと連れ出してくれた。そのころには「驚起(きょうき)」という日比谷高校の文学同人誌に加わっていて、小説ともつかぬものを書いてみた。ただ、腰を据えて小説を書き出すのは、ずいぶん先になります。

 〈31年に東京大学へ進学。ドイツ文学を専攻した〉

 独協高校に一時期通っていて、ドイツ語になじみがあったのもあるけれど、「日本と同じように戦争で負けた国の文学をやろう」って気持ちがあったんです。英米文学や仏文学をやる人たちは、戦勝国と自己を同一化しているところがあった。それが嫌でね。卒論に選んだのはカフカ。原文を読むと、非常に透明な文章で不可思議なことが書かれている。「これはとてもマネできるものじゃないな」と思った。一方で、自分が組織で働く姿も想像できない。うかうかと就職の時期を過ごすうちに研究者の道を進むことになったんです。(聞き手 海老沢類)